ウソ臭くて見限られたのだろうか。新刊広告に「必読」の二字を見ることが減った。

「ウソ」で悪ければ、やや上品に「必読のパラドクス」とでも呼ぼうか。誰もが知るとおり、万人の読むものは読み捨てられ、古典と言われるものは少数の人しか読まない。

どの本が「必読」か、という問いは、そんなわけで厄介だ。

そんな時は問いそのものを問うのもいい。古典とは何か、古典を学ぶことにどんな意味があるのかを論じた一冊、『リベラリズム 古代と現代』(レオ・シュトラウス著、石崎嘉彦、飯島昇藏ほか訳、ナカニシヤ出版)を取上げたい。

シュトラウス(1899—1973)は30代でナチスの迫害を逃れ、やがて落着き先のアメリカで、政治哲学者として頭角を現す。死後、ブッシュ世界戦略の余波を受け「ネオコンの祖父」とこき下ろされもした。この非難は中傷めいたものだが、彼が価値相対主義というリベラリズムの教義に挑んだのは確かだ。

原著が68年に出たこの論文集は、各々独立して読める長短十章からなる。厚みで半分ほどに当たる中央の四章は、プラトン、マイモニデスらの古典の注解だが、噛みごたえ十分以上と言っておこう。残りの章の主題も、いわゆる「教養教育」(リベラル・エデュケーション)の意義、現代政治学への批判、 20世紀の直面した理性とリベラリズムの自己崩壊、と幅広い。

ただしシュトラウスの問いの核心は、大学での教養教育を論ずる第一章だけからでも、かなり伝わってくる。シカゴ大学での講演を再録するこのわずか11頁で、彼は政治哲学者としての手の内を、異例の歯ぎれよさでさらしたと言える。

彼の言う教養教育とは「最も偉大な精神が後世に残した偉大な書物を、しかるべき注意を払って研究すること」だ。何のことはない、念頭にあるのは、テクストを精読するセミナーに他ならない。ただ、それが専門以前の「教養」と言うのだから、教わる方も教える方もしんどい。

彼はこの古典の精読を「何らの知的努力も精神的努力をも要さず……力量において最も劣った者が所有する文化」に対する「拮抗毒」と捉えた。なかなか尻尾を出さないテクストの行間から、社会に広く受入れられたドグマへの批判を引出す解釈の技術を、少数の若者に授ける——この修練が民主主義を「大衆文化による腐食」から守ると彼は考えた。

シュトラウスのことばは、エリート支配の鼻もちならない称賛に聞こえる。しかし私たちがそう感じるのは、物心つく前からリベラリズムのドクサ(先入見)に浸ってきたことと無縁と言い切れるだろうか。世界の享楽的な多数意見への手厳しい批判が、大学というそのホコリっぽい一隅で、陰険な仕方で伝承されることが、批判される当の民主主義の命脈を保つ、などというのはおとぎ話だろうか。

誰もが知るとおり、古典と言われるものが、いつの時代も、少数の人にしか読まれないことだけは、確かである。

高木久夫
経済学部非常勤講師。「宗教学」担当。1962年川崎市生まれ。コロンビア大学 (M.S.)、国際基督教大学(学術博士号)。専門は宗教と哲学の関係をめぐる、初期近代の西洋およびユダヤ思想史。