昭和26年、『三田文学』に『ガラスの靴』が発表された。「第三の新人」の1人、安岡章太郎の出世作である。今月は彼の芥川賞受賞作『悪い仲間』を紹介する。

 大学予科に進学して最初の夏、主人公の「僕」は藤井高麗彦という同年輩の青年と出会う。

 藤井は女を知っている。

 そのことに気付いた時、僕の中の藤井像は変容する。たったそれだけのことではあるが、藤井という人間は抗いがたい魅力を持って僕の意識を鷲掴みにした。こうして、藤井と僕、もともとの友人である倉田の3人の交友が始まるのだが……。 
 
 悪友・藤井高麗彦に僕は倒錯した憧憬の念を抱く。その価値観をひたすら模倣すること、積極的に藤井の影となることに喜びを見出す。藤井の世界こそ「僕」の世界の全てであり、「僕」はそこに違和感や疑問など露ほども抱かない。いや、少なくともどこか満たされぬ思いは感じているが、さらに藤井に近づくことで胸の虚空は埋るだろうと漠然と考えている。

 しかし、藤井が学校を辞め、病にまで冒されたことが分かると、「僕」は激しい恐怖に襲われ、悪友たちの輪から1人だけ逃げ出してしまう。己の卑しさ、羞恥心など感じることも出来ないくらいおぞましい恐怖だった。

 一方、「僕」と倉田を惹きつける藤井自身も、気付かないうちに自身の影に捉われてしまう。僕や倉田が彼を酔わせ、快感を覚えさせる。いつしか、彼は自分で作り上げた高みの地位にすがりつくことに必死になり、酔狂とも言える振る舞いを繰り返す。

 贋物だ。3人の青年がそれぞれ追い求めていたのは贋物、影は所詮影でしかない。「脱俗」を目指し、文化的に高尚な生活を夢見る彼らは「真似事」しか出来ない。真に「文化的」な人物はここには描かれていない。藤井ですら贋物である。

 文化的生活がそれと認識されるには、非文化的生活者からの視線がなければならない。文化的生活に憧れ、それを模倣している以上、彼らは非文化的生活者の枠内から抜け出すことは出来ない。このパラドックスの歯牙にかかり、身を滅ぼす藤井と倉田。憐れである。逃げ出した「僕」も、恐らくこの先にあるのは別の形での破滅であろう。この冷酷なるパラドックスに気付かぬ限りは……。

 現代では、文化資本、端的に言えば教養が投資の対象になりつつある。これはあまりにも現代的な読み方で、恐らく見当違いでもあろうが、今回この作品を読んで「文化的生活」に翻弄される青年たちが、現代社会に生きる私にはどうも他人事とは思えないのである。

(古谷孝徳)