私たちの1番身近にいる慶大教員どんな学生時代を過ごし、どうして大学教員・研究者になろうと考えたのか。国際化が進む中、海外就職する塾生も増加し、多様化する就職先により進路に悩む塾生もいるだろう。アジア圏であり距離が近く、美容やアイドルなど多岐に渡る部門で交流のある韓国出身の金景彩助教から話を聞いた。

 

韓国と日本を行き来した学生生活

 韓国では大学在学中に休学するのが一般的だ。休学期間中はバイトや留学、資格の勉強等、個人の思い思いのことをして過ごすようだ。金助教は大学1年の終了時に休学をし日本で生活する1年を過ごした。第二外国語として日本語を少し学んだ経験があったため、「一度は日本に来てみたかった」のだという。

 復学後の1年間は日本の名古屋大学への交換留学のために準備をし、3年次に2度目の日本を経験した。大学のシステムを利用してやりたいことを実現し、大学入学からの5年間を日韓交互に過ごした学生生活だった。

日本での滞在を、後に繋がる学びの機会とするため、生活の時間は勉強に費やした。韓国語と同じレベルで日本語を読み書きし、日本での希少な経験を真に自分のものにするために学んでいたそうだ。また、日韓を行き来する特異な経験は専攻していた韓国文学研究に活かされていた。

 

韓国文学研究を目的に進路決定

 3年の留学時に日本の大学で専門的な授業を受け、日本語で研究する可能性を感じたため日本の大学院への進学を決めた。

金助教は韓国文学の研究を何かしらの形で続けたかった。日本の統治下に置かれたこともある韓国の植民地文学には日本語で書かれた作品や資料が多い。また、韓国で韓国文学を研究すると主流の学問であるため研究者が多く競走が激しい。むしろ「韓国文学が主流でない世界で専門性を活かしてみたい」と考えた。

そして、大学院卒業のタイミングで仕事を獲得できたことで、研究職として生きていく将来を決定したという。

 

外国人としての制限に苦労も

 実のところ、留学生時代は新しい人間関係や新しい生活、自国に帰る可能性もあったために、モラトリアム的な気分でただ楽しい生活を重ねていた。

 日本での生活を10年近く重ねるとその形は一変した。本格的に日本のシステムに取り込まれてから、外国人であることによる困難が目につくようになったという。どこかに部屋を借りて学業や仕事をこなすという普通の生活を営むこと自体、権利上様々な制限を受ける外国人にとっては簡単ではない。日本に在留できる期間に限りがあるため、在留期間を延長するために何年かごとに膨大な書類を用意しなければならないのは常である。結婚して子供が産まれるとなると、子供の国籍をどうすべきかいう問題や、それに伴う行政手続きに悩まされる。「外国人として生きる難しさが目に見えるようになってきた」と語る。

 

授業と研究を両立するスケジュール

金助教は授業が2・3割、学会が7・8割の割当で日々を過ごす。決まったルーティンがあり、6時に起き、22時に就寝する生活をしている。授業のある日はその準備や記録、提出物の確認等に費やし、授業が無い日の午前中は読書や、研究発表のための準備や執筆を行う。午後は業務連絡や事務を行っている。

 

助教授という仕事への思い

金助教は現在、近現代の韓国文学から、国や地域を超えて共有できる普遍的な価値を見出すための研究をしている。

助教という仕事は授業と研究を同時期に平行して行うため、専門的な研究内容を伝わりやすいように「翻訳」して生徒に共有できることが面白く魅力的だ。学生からのアイディアが研究に活かされることもある。また、非専門的な日常のコミュニケーションが専門的な研究に活かせるという循環が喜びでもある。

しかし、一般的な会社とは異なり、授業や研究に対して誰かに明確な指示を仰げる職業ではないため、自分で計画を立てて日々の仕事に取り組まなければならない。自由度は高いが、そのため不安もあり、時にそれがストレスになる。大学教員は、「自分の人生に主導権を持ちたい人に向いている仕事である」と語った。

 

(松島瑠香)

 

【お詫びと訂正】

弊紙2024年2月号4面「【大学研究者の学生時代】 「自分の人生に主導権を持ちたい人へ」金景彩助教」の記事におきまして、校閲が不十分なまま掲載しておりました。そのため、金助教の『大学教員の仕事や、二つの国を行き来しながら生きることについて、少しでも理解を深めてもらいたい』というご意向に沿わない文面で記事を発行しておりました。

本サイトでは校閲後の金助教のご意思が反映された記事を掲載しております。

訂正させていただくとともに、深くお詫び申し上げます。