哲学が近頃また流行しだしたらしい。書店の店頭にはニーチェやマイケル・サンデルらの哲学書が平積みになり話題となっている。
だが、私たちはそのたびに本当に哲学というものと向き合えているのだろうか。ただ流行に流された哲学もどきなのではないか。
そこで今回は、今年8月まで国際プラトン学会会長も務めていた納富信留文学部教授に人々にとっての哲学の向き合い方について話を聞いた。
現代人にとって哲学の意義とは何なのか。納富教授によれば、哲学することには利便性・功利性を超えた「切実なもの」があるのだという。だが、現状において人々の間で哲学が実際に「切実なもの」たりえているかといえばそうとは言い難い。
一因には哲学の敷居の高さという問題がある。哲学の原典は難解を究め、その数は膨大だ。かといって解説書を紐解けばその通り一遍の知識のみで満足してしまうことになる。それでも、納富教授は原典に当たる必要を強調する。実物を見ずに解説のみで思想を語ることは、「映画を見ずに内容を語るというような転倒」があり、原典には解説書にはない「迫力」があるという。
だが、原典の難解さはぬぐえない。原典を読んで内容が分からなかったとしてもいいのだろうか。納富教授は言う。「自分のレベルをはるかに超えたものに出会うのはいいこと。簡単にわかることに、そこまで価値はない。分からなくても、なんとなくでも何かを感じ、後にまた読んでみてくれればいい」
かくいう教授自身も大学生時代、先輩たちとヘーゲルの『精神現象学序論』を1年かけて読んだが全く分からなかったという。そのような大学生活の中で、ギリシャ文学の興味などとあいまって、古典西洋哲学を専門にすることを志した。
だが、哲学書はどの時代のものから読み始めればいいのだろうか。やはり、古典哲学から現代へと時代をたどって行くべきなのか。
納富教授は「自分の興味に合致しないものならば読む意味がない。古典からでなくとも、自分の興味のある哲学書を読んで、そこで言及されている書物からさかのぼっていけばいい」という。
最後に納富教授は今の大学生に向けて「大学時代は哲学するには恵まれた時期。知識もあり、物事へ興味もあり、自由な時間もある。年に数冊でも哲学書を読んで考えてみてほしい」と語った。
店頭に並ぶ哲学書を一冊手に取ってみよう。わからずとも、真摯に向かえばきっと大学時代のいい経験になるはずだ。
(乙部一輝)