今年7月26日から8月11日まで開催されたパリ五輪。日本からも多くの選手が活躍し、日本はメダル獲得数世界三位となった。

その中でも、塾員であるフェンシング日本代表の宮脇花綸選手が、女子フルーレ団体で史上初となる銅メダルを獲得したのは記憶に新しい。

今回は、輝かしい成績を収めた宮脇選手の、試合を終えて間もない心境やメダル獲得までの道のり、そしてフェンシングに励む塾生に向けたメッセージに迫った。

 

フェンシングとともに歩んだ女子高、大学時代

宮脇選手がフェンシングを始めたのは幼稚園児時代。そこからフェンシングを続け、慶應義塾女子高校に入学。高校2年生の時にオリンピックを本格的に目指そうと決意したという。理系の道に進もうと考えていた時期もあったそうだが、フェンシングの道との両立を軸に将来設計をしたそうだ。当時の学部選択を振り返り、海外遠征と授業が両立できる環境を考えたと語る。

大学で経済学部に進学してからは、平日はほとんど日本代表のチームでの練習に臨み、その間に生まれたわずかな時間を活用して語学などの授業に出席するといったハードな生活を実現させていた。また、体育会フェンシング部にも所属していた宮脇選手は、代表練習でなかなか通常練習に参加できない中でもリーグ戦などに出場し活動をしていたという。当時を振り返り、通常練習に参加できていない中で温かく迎え入れてくれた部とともにリーグ戦優勝を果たせたのはありがたいことだったと感謝の思いを語った。

 

グラン・パレで臨んだ三位決定戦

今回フェンシング競技が行われたのは、パリにあるグラン・パレ。1900年の万国博覧会のために建造された歴史的建造物で、今回の大会のために改修が行われた。そんな場所での試合を通じて、宮脇選手はオリンピックの特別さを改めて実感したという。

今回メダルに直結した三位決定戦では、33対32という接戦の末の白星。なかなか3点差からリードを広げることができず、仲間を信じていた中でもヒリヒリ、そしてドキドキする試合だったと振り返る。

チーム全体として共通の認識を持っていたのは、「相手にリードされたくはない」という部分であったという。チャレンジしていかなければいけない局面もある中で、無理をせずに一点ずつ少しずつリードを溜めていく試合が勝ちにつながった。チームのみんなが最後まで我慢強くリードをつなげていったことが勝因になったと振り返る。

 

コーチとのコミュニケーションも勝因に

続いて、ヘッドコーチを務めたフランク・ボアダンコーチと菅原コーチについて、宮脇選手が当時どのようなやりとりをしていたのかに迫った。

フランクコーチとは、コミュニケーションをしっかりととることができていたことが勝ちにつながったという。特に、リザーブ選手と呼ばれる控えの菊池小巻選手との交代のタイミングを事前に共有できていたことがよかったと振り返る。

また、菅原コーチはチームに強い気持ちを持って応援してくれる、発破をかけてくれるコーチだと振り返った。コーチ自身も過去の五輪でベスト8から惜しくもメダルに届かなかった経験を持っているからこそ、その悔しさをバネにしたメダルへの気持ちが伝わったという。

 

二度乗り越えた挫折

宮脇選手の中で乗り越えた挫折は二度あったという。

一度目の大きな挫折は、東京五輪のメンバーになれなかった時だと振り返る。自国開催で一生に一度の機会であった大会で代表権を逃したことは、引退を考えるほどの大きな挫折だったという。しかし、当時のコロナウイルスによる練習の制限やスポーツに対する世間の風当たりの強さなどを目にし、「くよくよしている場合ではない」、「代表に選ばれた選手にとって、私が世界で一番強い練習相手にならなければいけない」という思いを持ったという。そんな思いが、宮脇選手を前へ動かし、3年後の今大会への勝利に導いたと振り返った。

二度目の挫折は、2022年の世界選手権の団体戦だ。10点差をつけて勝っていたフランスに逆転負けをし、メダルを逃した。この悔しさが一年後の銅メダルや今回の銅メダルにつながったと振り返る。

 

 

フェンシングに励む塾生にメッセージ

慶應義塾には、大学の体育会をはじめとし、塾高、SFC中高などで多くの塾生がフェンシングに取り組んでいる。最後に、塾生に向けてメッセージをいただいた。

「スポーツで感じる嬉しいだとか悔しいという気持ちを大切に、フェンシングを長く楽しんでくれたら嬉しいです。私も運動能力が高い方ではなかった中で、長所や面白さを見つけたので、ぜひみなさんも自身の長所を伸ばして頑張ってください。」

 

坂本健斗成沢緑恋