日吉駅前の信号を渡り、銀杏並木を登った先にある記念館。多くの塾生が日吉キャンパスの風景として浮かべるその奥に、蝮谷と呼ばれる土地がある。テニスコートやアメフト場のあるその蝮谷に残る戦跡をご存じだろうか。かつて海軍が大戦末期に指揮をしていた、日吉台地下壕だ。弊紙記者は、地下壕の保存活動を行う日吉台地下壕保存の会が主催する、地下壕見学会に参加した。

日吉の戦跡を巡る

地下壕見学会がまず向かうのは、銀杏並木の先記念館から向かって右側にある慶應義塾高校の校舎だ。実はこの塾高校舎も、立派な戦跡だ。「学徒出陣、勤労動員で学生不在の中、堅牢な校舎が残った。そこに目をつけたのが海軍。また日吉は丘のような地形で電波通信がしやすく、霞が関の海軍省と横須賀軍港の間というアクセス性も、海軍にとって都合がよかった」とガイドの方は話す。そのような経緯で塾高の校舎は、大戦末期の1944年に海軍との賃貸借契約を結び、軍令部など海軍中枢のオフィスとなった。ガイドの方の解説とともに塾高校舎前を後にした我々は、蝮谷に降り地下壕内部へと向かった。
日吉台地下壕の入口は、塾高のグラウンドの近くにひっそりと存在する。2001年に整備された入口から懐中電灯片手に中へ入る。地下壕内部は昨今の酷暑が嘘のように涼しく、少し水が滴る空間だった。もちろん内部は暗いため、足元を懐中電灯で照らしながら、ゆっくりと歩いて進む。コンクリート造りで堅牢な地下壕は、何もかもが不足していた大戦末期に作られたとは思えないほど頑丈そうだ。ガイドの方も、「東日本大震災の時でも、びくともしなかった」くらいだと話す。まるで迷路の作りのような地下壕を奥へ奥へと進むと、いくつかの部屋が現れる。連合艦隊司令長官室、バッテリー室、食糧庫……。かつて本当にここで戦争指導が行われていた痕跡が、あらゆるところに出現する。「壁や天井のところどころにある窪みは、配電盤や洗面台などを取り付けた跡」「壁に残っている木材は、書棚などを固定していた木枠だ」など、ガイドの方の説明も豊富で、当時の様子を思い浮かべやすい。
地下壕内をぐるりと一周した後、その中でもひときわ広い、作戦室という空間で地下壕及び当時の戦争状況についての解説が始まる。ガイドの方がスマホを取り出し、ある音源を再生する。モールス信号だ。途中からツー、と長音が地下壕内に響いたかと思うと、突如音が途切れる。「これは、特攻隊員からの通信です。まさにここで受信していました。この、ツーという音が途切れた時、何が起きたかは皆さん分かるかと思います」と解説が入る。地下壕自体の話から、当時の特攻という人命軽視の作戦やそれに使われた兵器まで幅広い解説を地下壕内部で受けた。

保存の会に集う人々

見学会参加後、主催する日吉台地下壕保存の会の喜田さんと岡本さんにその活動について話を聞いた。
喜田さんによれば、保存の会が活動を始めたのは1989年。ただそれ以前から塾高教員による見学会が行われていたという。「当時は中も泥だらけで、長靴が埋まってしまうくらい。途中で辞退者が出てしまうほど」だったと言う。辞退者の方を放っておけないと考え、喜田さんはボランティアを始めた。その後、2001年に地下壕が大学管理下になると、見学会は現在の戦争解説も含むようになる。岡本さんは、そのガイドを養成する講座からボランティアに参加した。「元々、軍事オタクだったので、定年退職を機に参加した」と語る。
ボランティアの方々が参加する理由も様々だ。ただ、日吉台地下壕を知ることで、歴史は教科書の中の物語のような「別物ではない」と知ってもらいたい、という想いは一致している。「まずは自分の地域の歴史を知ること。そこから何を感じるかは人次第だけど、地下壕はその出発点であってほしい」と両氏は話した。

歴史との接点に触れる

今年で先の大戦から79年。遥か昔の関係ない話に思われる歴史も、我々の身近なところにその接点は存在している。日吉台地下壕の見学会は、保存の会ホームページから申し込み可能だ。塾生諸君、身近な日吉から歴史を学んでみてはいかがだろうか。

橋本成哉