自分は世界史が得意だ、という人でも“ユリアヌス”という名前を知っている人は少ないだろう。ましてや彼が古代ローマ皇帝だったということも。本著は古代ローマ末期の皇帝、ユリアヌスの30年の生涯を題材にした小説である。著者である辻邦生氏はフランス文学研究者であり、皇帝ユリアヌスに関する海外の専門書を基に実在の人物を登場人物としてストーリーを構築した。高校世界史の教科書では「…コンスタンティヌス大帝によって公認されたキリスト教を排し、“異教”復興を目指すも挫折した。…」と一行でしか語られないユリアヌスだが、この小説は古代ローマ史全体を包摂している。

 

あらすじと概要

古代ローマ末期、ローマ宮廷内では新興勢力であるキリスト教徒と旧勢力である多神教徒との権力闘争が繰り広げられていた。コンスタンティヌス大帝の甥として生まれたユリアヌスはキリスト教徒の陰謀により幼くして両親、兄弟を失う。不穏分子とみなされた彼は少年時代を通して幽閉され、“神の代理人である皇帝”への絶対服従を教えこまれるも、徐々にキリスト教に懐疑的になっていく。幾度も死の危険を巧みに乗り越え副帝(分割統治時に置かれた皇帝に次ぐ役職)に就任し、最終的には全ローマを支配する皇帝となる。

 

この時代のローマ帝国は北からはゲルマン人が侵入、東からはササン朝ペルシアが圧迫するなど軍事的に弱体化しており、そのしわ寄せは増税という形で民衆に降りかかっていた。社会全体が動揺する中人々は救いを求めてキリスト教に入信し、ローマ古くから続く多神教は廃れつつあった。ギリシャの神々を信仰し、妄信的信仰を疑問視するユリアヌスは、偉大なローマ帝国の復活には宗教への寛容さが必要と考え”異教”(キリスト教から見た他宗教)の復興を試みるがどうなってしまうのか。

 

おわりに

この小説が扱っている時代、事象はとてもマニアックであり読解には若干の背景知識が必要である。しかし一度読み進めてみれば強く引き込まれていくような文章であり、たちまち文庫本3冊を読み切ってしまうだろう。夏休み中、長編歴史小説を読みたい、しかし「チンギス紀」や「ローマ人の物語」は長すぎる、という人にうってつけだ。歴史好きの読者には「ローマ帝国の東西分割とはどのような制度だったのか」「キリスト教はどのように広まったか」という疑問に答えてくれるだろう。ただし、あくまでこの記事を書いている私(木下優希)の考えだが、この本を読む時の注意点として「ユリアヌス=善」という視点だけで読み進めるべきではないと思う。これに注意して読めれば本書の言わんとすることを理解できるだろう。

 

 

(木下優希)