慶早戦の歴史について

10月28・29日にいよいよ待ち望んだ慶早戦野球が明治神宮野球場で開催される。今回のコラムでは、慶早戦を当日より楽しんでもらうための予備知識として「慶早戦の歴史」にフォーカスする。この記事を読んで、より慶早戦について興味を持ってもらえたら幸いである。

 

そもそも慶早戦とは?

まず、慶早戦の歴史を紹介する前にそもそも慶早戦とは何なのか解説したいと思う。「慶早戦」とは、名前の通り慶應義塾大学・早稲田大学両校による対抗戦である。野球・ラグビー・レガッタなどに代表されるスポーツでの対抗戦であり、その中でもなんと野球の慶早戦は「学生による世界三大競技」として国内では認知されている。学生ならず日本にとって「伝統の一戦」として重要な意味を持つものなのだ。

 

慶早戦の発祥

ここからは、慶早戦の歴史について代表的のものを紹介する。慶早戦の発祥は、両校による野球部の試合だ。1903年(明治36年)、早稲田大学野球部が慶應義塾大学野球部に「挑戦状」を送達し慶應側がそれに応じ、11月21日に三田綱町球場にて行われた。結果は11−9で慶應の勝利に終わったが、当時発足から20年余りの慶應野球部に対し発足からわずか1年余りの早稲田野球部が善戦したことで、慶應も対戦相手にふさわしいと評価したために定期戦を行うことが決まった。

 

空白の19年間

定期的な慶早戦の開催が定着したが、次第に両校の応援合戦が熱を帯び、加熱していくことになる。1906年10月28日の早慶戦において、第1戦に勝利した慶應側の学生が大隈重信邸で万歳を行うと、今度は第2戦に勝利した早稲田側の学生も福澤諭吉邸で万歳を行ったため両校応援団は一触即発となる。これ以降、険悪な雰囲気が高まると両校当局は慶早戦第3戦(11月11日)の中止を発表、11月13日の学生大会で慶應は早稲田との決別を意味する決議案を提出し1911年12月に早稲田側も絶縁状を慶應に対して発した。そして、月日が経つこと19年、1925年に明治大学野球部部長と法政大学監督の行動や慶大野球部主将らによる説得が功を奏し慶早戦が復活することとなった。(なお、この時に東京六大学野球連盟が創設された)

 

最後の慶早戦

1941年の太平洋戦争が開戦して戦時色が強まると、アメリカから持ち込まれた「野球」はスポーツ自体が敵性スポーツとして見なされ活動の中止に追い込まれてしまう。その影響を大学野球も受け、1943年の文部省によるリーグ解散令で東京六大学野球加盟校は活動停止に追い込まれてしまった。さらに、日本軍の戦況が悪化すると学徒出陣が発せられ、法文学部系学生の徴兵延期停止の命令が下る。そこで、出陣前に最後に試合を行わせてあげたいという想いから1943年10月16日に早稲田大学戸塚球場で最後の慶早戦が行われた。急遽決行された試合でありかつ慶應側は急遽選手を故郷先から呼び戻したため、コンディション不足と練習不足が重なり慶應は10−1で大敗した。試合終了後には、慶大生が早稲田大学校歌「都の西北」を、早大生が慶應応援歌「若き血」を歌い互いにエールを交換したというのは心に響くものがある。そして、野球は戦後復興の呼び水としていち早く再開されると1946年には東京六大学リーグも再開され、神宮に両校の応援と球音が響き渡った。

 

おわりに

慶早戦が誕生してから様々な出来事や困難を経て現在まで受け継がれていることをお分かりいただけただろうか。もちろん、今回紹介した歴史は慶早戦全体の歴史の中のごく一部にすぎない。そのため、もし他の出来事など詳しい歴史が知りたければ自分で細かく調べてみるのもいいだろう。また、これを機に野球だけではなく他のスポーツの慶早戦について調べてみるのも面白いだろう。最後に、長い歴史を持つ伝統の一戦「慶早戦」をぜひ現地で観戦し、選手に声援を送ってほしい。優勝がかかる試合を自分の目で見られることはきっと思い出に残る経験・財産になるはずだ。