谷崎潤一郎、泉鏡花、遠藤周作、松本清張。いずれも日本を代表する作家だ。そんな彼らに活躍の場を提供したのが三田文學である。三田文學は、1910年5月に永井荷風らによって創刊され、以来、独自の視点で気鋭の作家たちに活躍の場を与えてきた。今回は、三田文學現編集長関根謙さんと編集部の方々に話を聞きながら、三田文學の精神、塾生とのかかわりについて掘り下げる。
三田文學の変遷
三田文學は、慶大文学科(現文学部)が大改革を行った1910年に文学部の象徴として創刊された。当時の慶大文学科は、毎年の卒業生が十人未満で、学科廃止が叫ばれるほどの危機的な状況だった。このような状況を改善すべく慶大の幹事であった石田新太郎が、森鷗外に相談し、鷗外から推薦されたのが永井荷風だった。荷風は、慶大の教授に就任し教壇に立つこととなり、小泉信三や佐藤春夫に影響を与えた。そしてこの荷風を主幹として、三田文學が創刊された。当時の主流、自然主義とは距離を置き、荷風は独特の芸術至上主義的な観点から若手作家を発掘し積極的に誌面を割き、活躍の場を提供した。この独自路線を貫き、若手を積極的に起用するという姿勢は、伝統となり、戦前、戦後ともに著名な文学者を輩出した。しかし、荷風の芸術至上主義的な耽美的傾向は非難の的にもなる。1911年、三田文學に二度の発禁処分が下されると、それ以降、慶大の介入が編集にまで及ぶようになる。荷風は文学部の教授としての責任を窮屈に感じるようになっていた。結果、三田文學への興味も次第に薄れていき、やがて慶大を離れていった。
慶大にとっての文芸
福澤諭吉が亡くなる前年にまとめられた教訓集「修身要領」には、文学に対する向き合い方として「文芸の嗜は、人の品性を高くし精神を娯ましめ、之を大にすれば、社会の平和を助け人生の幸福を増すものなれば、亦是れ人間要務の一なりと知る可し。」とある。文学は、人と社会が高みを目指すために必要なもので、また、人間に必要不可欠なものだと福澤諭吉は説いた。三田文學編集長の関根謙さんは、慶大が荷風に教授就任を要請したのは、こうした福澤の精神に基づく一貫した姿勢からだという。文学には、実学とは異なり個人の表現が重要だ。社会を構成する一人ひとりの個人に目を向けることで見えることがある。「実利的な学問の追究だけでなく、その根源にある人の姿を見すえて、発信していく媒体がなくてはならないのです。文芸の力について慶大のような総合大学が本気で取り組んだということはとても意味があることだと思います」
三田文學の精神
永井荷風が、慶大の教授に就任したのは異例なことだった。慶大卒でなく、指導経験もない。まして耽美的な作品は、発禁処分を食らうこともあるなど荷風は、文壇でも特異な存在だった。三田文學の編集長に就任した荷風は、その特異さを発揮していく。当時、自然主義派の作家から白眼視されていた泉鏡花に対して発表の機会を与える。また、谷崎潤一郎は、三田文學での活躍、さらに永井荷風の後押しによって作家としての地位を確立していった。荷風は、積極的に谷崎に誌面を提供し、さらに自ら谷崎論を書いた。現代よりも表現に対する自由がなかった時代、彼らの作品を世の中に送り出すには強い意志が必要だった。荷風は彼らの文学における本質的な力を見抜き、発禁処分を受けながらも独自の路線を切り開いていく。関根氏は、この荷風の姿勢に文学の本質を見出す。「そもそも文芸自体がアンチメジャーなものなんです。社会の流れから独立して、個人の感情に目を向け、その表現を大切にしていく。それが日本社会の健全な方向性を検証していくのです」
塾生と未来に向けて
三田文學では、現在でも積極的に発信活動を行っている。創刊から100年を超える伝統は守りつつ、文芸の総合的な発信の場として学生との積極的な交流を図っている。最近では、三田文學新人賞をはじめ全国規模の文学賞で塾生の活躍がめざましい。また、インターネットによる配信も拡大しておりnoteなどSNSでも活動している。さらに注目すべきは、塾生との交流の一環として「文章と表現」という科目があることだ。この授業は、三田文學に関係する教員が担当し、ワークショップ形式で創作方法を学んだりもする。現在、三田文學で副編集長を務める岡英里奈さんは、この授業を通して本格的に創作に興味を持ち始めたという。「授業では、糸を触り連想されることを話し合ったり、色を見て詩を作ることがありました。授業を通して、今まで目で見たり、手で触れたものをちゃんと感じてなかったと分かり、世界が広がりました。」文芸に関心のある学生は現代でも多くいることだろう。しかし、発信の場、交流の場を見つけることは難しいかもしれない。そのような若者に対して三田文學は手を差し伸べている。