「鉄と魚とラグビーのまち」で知られる岩手県釜石市。北部に位置する鵜住居(うのすまい)町は、3・11当時、市内で最も大きな被害を受けた。津波の最大遡上高は32.87㍍、市内の犠牲者のおよそ半数は鵜住居地区住民だった。沿岸の釜石東中と鵜住居小は津波に流された。
鵜住居小3年生のときに被災し、現在は慶大総合政策学部で防災を学ぶ洞口留伊さんに震災当時の状況や復興や防災についての話を聞いた。
後ろ見ちゃだめだよ
――地震のとき何をしていて、どのように避難しましたか。
あのときは算数の授業中でした。いきなり大きな地震が来て私たちもパニックになって、一旦机の下に隠れました。教室の後ろにストーブがあって、掃除用のお湯を沸かしていました。地震で熱いお湯が飛び散って、地震どころか熱さの方が大変だったことを覚えています。
そのあと、校舎の屋上に逃げました。屋上で隣にある中学校の生徒が坂を登って逃げているのが見えて、私たちもついていくことになりました。
逃げている最中も後ろから津波が来ている状況で、「絶対後ろを見ちゃだめだよ」と言われていました。だいたい1㌔くらい登り切ったところで一度津波からは逃れられました。高速道路にいたトラックの荷台に乗せてもらって釜石市街の体育館に移動できました。
――中学生と避難して心の支えになりましたか。
日頃から避難訓練を小中合同でやっていて、訓練と同じではないですけど、いつもの状況でお兄さんお姉さんが隣にいたので、パニックのなかでも安心できました。
――ご家族にはいつ会えましたか。
母と弟とは一緒に避難していたのですが、父は釜石市街の方に仕事に出ていました。1,2日くらい経って、父と合流できました。その後父は自宅の様子を見に行きました。私、母、弟の3人は避難所を移動することになり、その情報を父に伝える術がなかったため、避難所体育館の掲示板を使いました。父はその掲示板を見て私たちが避難所を移動したことを把握しました。
――避難所生活で大変だったことはありますか。
避難所には地域の人が大勢いるので食糧不足でした。おせんべいと水がご飯みたいな感じでした。最初に避難していた体育館が遺体安置所になるということで体育館を移ったのですが、そこでは炊き出しとかやってくださる方もいてやっとお米を食べることができました。
現実とは思えない
――暮らしてきた町が津波に流されたと知ったのはいつごろですか。
ニュースを観て知りました。当時は「夢みたい」というか「現実だと思えない」という感情でした。両親は何度か自宅の方に戻っていましたが、私は「行きたくない」と言っていました。避難するときに、いつも見ていた景色が黒い波でごちゃごちゃになっているのを一瞬見て、「絶対戻りたくない」と思っていました。
――学校は再開できたのでしょうか。
他の小学校を間借りする形でした。高学年と低学年に分けて空いている教室を使っていました。ランドセルや筆記用具がすべて流されてしまったので、学校に関するものはすべて支援物資で揃えました。私たちが小学校6年生のときに仮設校舎ができて中学生のときはそこで過ごしました。
小中学校の跡地には2018年、「釜石鵜住居復興スタジアム」が完成した。19年にはラグビーワールドカップの試合が行われ、1万4000人のサポーターが鵜住居を訪れた。釜石高校2年だった洞口さんはスタジアムの完成を記念した「キックオフ宣言」を行った。
――ご自身が通った小学校が取り壊されてスタジアムになることに対して、当時どのような気持ちでしたか。
最初は、自分が通った場所がなくなることに複雑な思いがありましたが、スタジアムになって世界中の人から注目される機会ができたので、それはすごく嬉しかったです。
私は釜石が好きだ
――「私は釜石が好きだ」からはじまる宣言はどのような思いで書かれましたか。
やっぱり一番は感謝を伝える機会にしたいなという思いで、あとは地元が好きだということをシンプルに伝えました。大勢の人がいて緊張しましたが、「私は釜石が好きだ」という言葉は思いを乗せて伝えられる言葉だったんじゃないかと思います。
――キックオフ宣言の反響はいかがでしたか。
反響大きかったですね。特に、震災で離れ離れになり、疎遠状態だった同級生から「宣言みたよ」という連絡をもらったときは嬉しかったです。
――日本全国や海外から大勢の方が釜石に来てどうでしたか。
そもそも釜石にこんなに人が来ることがなかったので、とにかく自分自身楽しかったというのが思い出に残っています。海外から訪れる方に親しみを持っていただけるように、現地の言葉を覚えたりしました。
――高校を卒業し、釜石を離れる際にはどのような思いでしたか。
外に出たからこそわかる釜石の魅力を発見できる良い機会かなと思いました。また、釜石を離れても何かしらの形で釜石に貢献できると考えていたので、寂しさよりもワクワクが大きかったです。
――実際釜石の魅力を発見しましたか。
食べ物がおいしいとか、自然が多いとか、やっぱり本当に良いところだなと思います。あとは人が優しいです。帰省した時に、あまり喋ったことのない方からも「元気だったか」と声をかけられて、居心地がいいなと思いました。
一人でも多くの命を救うために防災を学ぶ
洞口さんは大学進学を機に鵜住居を離れ、SFCで防災を学ぶ大木研究所に所属している。
――現在、大木研究所では、どのようなことを勉強していますか。
小学校の避難訓練が現実に即していないので、より現実に近づけた防災教育を研究しています。小学生にもわかりやすい仕草やワードを使って教えています。
――なぜSFCで防災を学ぼうと思ったのでしょうか。
次いつ起こるかわからない災害で1人でも多くの命を救えるように活動することが感謝を伝えることにつながるのかなと思っています。
あと、SFCはいろんな分野を学べるので、地域課題の解決と結びつけるなど、いろんな軸から防災を見られることが魅力です。
――洞口さんは、どのように防災に向き合っていますか。
災害で命をなくす人を増やしたくないという思いがあります。自分の発信は小さな一歩ですが、それが徐々に広がって1人でも命を救えたらいいなという思いで防災を学んでいます。
震災遺構で伝えることも大事だけれども、楽しく防災を学ぶことも大切だと思うので、日常に溶け込み、次につながる防災を考えていきたいです。
防災ではコミュニティの力も大切で、地域の人を巻き込むことがポイントになると思います。
――防災教育を考える際に、東日本大震災の経験は生かされていますか。
東日本大震災のときは、学校の電気が落ちて、校内放送が使えなかったため、パニックになっていました。より臨機応変に対応できるように、避難訓練をすることが大事だと思います。
――将来鵜住居や釜石とどのように関わっていきたいですか。
防災を学び続けて感謝を伝えるのが目標で、釜石がより良くなるために学んだことを活かせたらいいなと思っています。
――洞口さんが思う「復興」とはなんでしょうか。
例えば、スタジアムを完成させるときも、復興という言葉を使うことでみんなが一致団結したというのはあるので、私にとってはすごく大事な言葉です。もちろん、いまのこうした楽しい暮らしは犠牲になった人たちの悲しみのうえにあることは忘れずにいたいです。
――震災を経験して、他者との関わりで意識していることはありますか。
明日が来ることが当たり前じゃないってことを震災で感じました。対人関係でも、日常のありがとうを悔いのないように伝えようと思っています。
――同年代の大学生に伝えたいことはありますか。
記事を読んで遠方にいる家族に連絡しようかなと思ってもらえたら嬉しいです。それがまた防災につながると思います。
(粕谷健翔)