タレントとして第一線を走り続ける傍ら、ユーチューブ、オンラインサロン、そして遺書動画サービスITAKOTOの立ち上げなど、活躍の幅を広げている田村淳さん。そんな田村さんは2021年3月に慶應義塾大学大学院メディアデザイン研究科(KMD)修士課程を修了している。田村さんが改めて学びと向き合うきっかけになったこととは。インタビューを通して、掘り下げた。
答えのない「死」という問いの探求
――田村さんは、「死」というテーマに関心を持っているとお聞きしました。日常では意識しない人が多いテーマですが、このテーマに興味を持ったきっかけはございますか。
うちの母ちゃんは、自分が20歳になった頃から「私に何かあっても延命治療しないでね」と一年に一回メッセージをくれていて。実際、母ちゃんががんになったときに、ちゃんとこれを守ってやりたいなと思ったのがきっかけですね。
それと同時に自分にも娘が生まれたので、娘に対して自分もメッセージを残そうと遺書を書いてみたんです。そうしたら他人のために書く遺書なのに、思いの外自分を振り返る作業が多くて。自分がやりたいこととか、自分がどう生きたいかとかが明確になって、遺書に興味を持ち始めたことがきっかけでした。
――ご多忙の中、敢えて大学や大学院で学ぶという選択をなさった理由は何でしょうか。
死というものを日本人が凄くタブー視するので、そのタブーに対して答えのない問いを深く研究するということをやりたかったんです。法哲学の観点でタブーとなるものを議論するという試みを青山学院大学の住吉雅美教授という方がゼミでやっていたので、当初は青山学院大学を受験したのですが失敗してしまって。
そうしたら、「社会人経験もあるし、研究したいこともあるのなら大学院にいきなり行っちゃえばいいのに」とアドバイスを受けまして。慶應のメディアデザイン研究科というところに行くことになりました。
慶應のメディアデザイン研究科は、起業の際に必要な知識をはじめとして幅広く色々なことを教えてくれるので、18歳からもう芸能の仕事をしていて一つの世界にしかいたことのない自分に一番合っているなと思い入学を決めました。
年齢は意外と関係ない
――慶應義塾大学院メディアデザイン研究科に在学した2年間で、最も印象に残っている講義や出会いは何でしょうか。
僕とは大分年の離れた人たちと出会うということは単純に刺激になったし、同時に年齢は意外と関係ないなとそこに身を置いて感じるようになりました。年上だから、まだ学生だからというように年齢で勝手にカテゴライズをすることによっていろんな可能性を閉じてきていたのだなと大学院に行って感じるようになりましたね。
どの授業も面白かったのですが、最も印象に残っているのは危機管理の授業です。というのも当時僕の相方の田村亮さんの闇営業問題で世間を騒がせているとき、1番ニュースが大きくなったその日の授業が危機管理の授業で。その授業で教わったことをそのまま亮さんの芸能界復帰に向けてすぐに行動に移したというのが大きかったと思います。KMDで危機管理の授業受けてなかったら多分亮さんは今芸能界復帰してないです。
――大学院入学時、既に幅広くご活躍されていましたが、仕事と学業の両立やご家族との時間確保のバランスとりには苦労があったのではないでしょうか。
大学院の授業は午前中の1限目から大体2限か3限目まで出ると1年で大体単位は取れるなと計算して履修を組んでいたので、吉本興業のマネージャーが午後1時くらいまでの仕事のスケジュールは入れないようにしてくれたっていうのが1番助かりました。僕が工面したわけではないので大変だったのはマネージャーさんだと思います。
家族は大学院に通う2年間、家庭の事はあまり考えず授業と仕事に専念してくださいと背中を押してくれていましたが、睡眠時間を削らないと課題などができなかったので、日吉キャンパスの隣駅にビジネスホテルを3か月分くらい貸し切って通っていました。
とっつきにくさという課題解決へ
――田村さんは、大学院入学後2019年11月からITAKOTOのサービスを立ち上げていらっしゃいます。関心を持っていたテーマが、実際にサービスとして形になる過程で、大学院での学びが特に活かされたと思われたことは何でしょうか。
プログラミングする人や実際に広報をする人がどのくらい大変なのかということを、KMDで授業を受けることで幅広く知れたという点は、チームを率いる上でとてもためになったと感じます。
――大学院を卒業され1年半が経ちますが、今振り返って入学以前と比較して考え方や行動が変化したと感じることはありますか。
データの見方が大分変わったと思います。このデータって本当に正しいのかということやデータの使い方が合っているのか、改ざんはないのかとか、データの取り扱いみたいなことは、すごく変わったなと感じます。特に、メディアに出る仕事をしているので、データは武器にもなるけど、誤って使うとミスリードをしてしまうという、データが大切だというところはKMDで教わって、タレントとしての発言の中でも変化した点だと思います。
――現在運営していらっしゃるITAKOTOのサービスの今後について、展望をお聞かせください。
遺書ってやっぱりとっつきにくいもので、一回書いてもらうと前向きになったとかなるんですけど、研究をしている中でもなかなか書くタイミングがないとか、遺書を残すという作業をしてもらうまでに時間がかかるものなんです。今は、このあたりの問題を保険会社や葬儀会社の方とか、いろんな死にまつわる産業の方と組んで協業できないかというのを考えています。
学びたいことは、いつのタイミングでも学び直せる
――コロナ禍で不安を抱える塾生や慶應義塾を目指している受験生が多くいます。仕事と学業を両立してきた田村淳さんから、塾生や慶應義塾を志す受験生に向けたメッセージをお願いします。
あんまりこうしなきゃいけないという固定観念に囚われて生きるのではなくて。自分が人生で何をしたいかとか、何が必要なのかっていうのを、今一度学生という贅沢な時間を使って、就職という短期の目標に向かってというより、自分が何をしたいのかいうことを自問自答しまくって楽しい学生生活にしてほしいなと思います。社会に出たら、そんな時間は本当にないと思うので。
ただ、学びたいことは、いつのタイミングでも学び直せると思うので。僕が46歳くらいで大学院入って学ぼうと思って修了することができたので、学ぶタイミングはいつでもいいけど、行動に起こすことやチャレンジするっていうのは、今のこの贅沢な時間をどう使うかで死ぬまでの有意義さというか、幸せの価値基準みたいなのが決まってくると思うので。贅沢な時間を存分に自分らしく使ってほしいと思います。
2年間の大学院での学びを活かし、仕事に取り組む田村淳さん。インタビュー内に登場した動画遺書サービス「ITAKOTO」も、田村さんが慶應義塾大学院メディアデザイン研究科に在学中に立ち上げたものだ。塾生には起業を志す者も多い。タレントというひとつの枠に囚われず、さまざまなものに挑戦し続けている田村さんの姿は、塾生にとって非常に刺激になるだろう。
〇遺書動画サービス「ITAKOTO」
タレント田村 淳さんは、自身が考案した、遺書動画サービス「ITAKOTO」を展開している。
「この世から、心のこりをなくしたい。」をビジョンに掲げ、発信力を生かしたコンテンツ配信を軸に終活の一括化を目指す。
〇プロフィール
田村淳(タレント)
1973年12月4日生まれ、山口県出身。1993年、ロンドンブーツ1号2号結成。コンビとして活躍する一方、個人でもバラエティー番組に加え、経済・情報番組など多ジャンルの番組に出演。300万人超のフォロワーがいるTwitter、YouTube「田村淳のアーシーch」の開設、オンラインコミュニティ「田村淳の大人の小学校」を立ち上げるなど、デジタルでの活動も積極的に展開。2019年4月に慶応義塾大学大学院メディアデザイン研究科に入学。2021年3月修了。タレントの枠を超えて活躍の場を広げている。
(植竹可南子・松岡優月)