言わずと知れた日本屈指のリゾート地、沖縄。この地は、かつて大東亜戦争における国内最大級の地上戦が繰り広げられた場所であった。犠牲者は20万人を超え、そのうち一般市民の死者は10万人近くにのぼる。彼らの死因は戦死に限られず、「集団自決」による自死によるものも少なくなかった。沖縄返還から50年という節目の年、本島南部にて慶大の校章が入った万年筆が発見された。以下は、その現場をはじめ数多の戦争遺跡に向かい、学生の視点から沖縄戦に迫った記録である。


(引用元:Google社「Google マップ、Google Earth」)

 

沖縄戦のはじまり〜集団自決〜

1945年3月、米軍は慶良間(けらま)諸島に上陸した。沖縄戦開始の瞬間である。激しい空襲や艦砲攻撃が列島を襲い、島々は白煙に包まれた。この上陸を境に、列島では集団自決が引き起こされる。「軍官民共生共死」「鬼畜米英」が叫ばれた当時、住民は米軍の捕虜となることに恐怖心や恥の意識を植え付けられた。結果、軍の誘導により住民は自死を強いられたとされる。慶良間諸島の渡嘉敷(とかしき)島では、列島で最も多い330人が集団自決で亡くなった。当時の歴史的背景に鑑みて、集団自決は強制集団死と呼び直されるべきだとの声も強い。

渡嘉敷島、集団自決跡地の現場

集団自決跡地がある渡嘉敷島では、白玉之塔にて毎年、慰霊式典が行われる。海上特攻基地だった慶良間には、詳しい実態は不明なものの慰安所が置かれ朝鮮人慰安婦もいたとされる。戦場に連行された女性らの追悼のためとして、支援団体がアリラン慰霊のモニュメントを渡嘉敷島に建立した。美しい自然と「ケラマブルー」の海に囲まれた島々は、かつての惨状をそう簡単には想起させない。

アリラン慰霊のモニュメント入口

市内に見られる戦争の跡

他方、戦禍の形跡は那覇市内にも見られる。安里(あざと)駅近く、ビルの隣にある慶良間チージは、首里防衛の要所として1945年5月、激しい攻防戦が展開された戦場である。当時、辺り一帯には砕け散った人身がゴロゴロと転がっていたという。首里城以前に琉球の王宮が置かれた浦添(うらそえ)市の浦添城跡地には、ハリウッド映画の舞台にもなったハクソー・リッジがある。日本軍からは前田高地と呼ばれたこの場所も、米の首里進軍に欠かせず激戦地となった。那覇周辺を一望できる景勝地として観光客も多い。

市内公園の一角にあるシュガーローフ跡地

硬い琉球の石灰石ででき、見晴らしの良い首里城の丘は軍事的価値が高く、日本軍が首里城に基地を置いた理由となった。1944年に那覇を壊滅させた10・10空襲をきっかけに、沖縄師範学校の生徒、教員らが首里に壕を造った。生徒らは後に、師範鉄血勤皇隊を結成し戦闘に参加。我々と同世代の若き少年で構成された隊員らの生存率は、3割に過ぎなかったという。首里城には、沖縄戦を指揮した第32軍司令部の壕がある。沖縄戦は、本土決戦を有利に導くための時間稼ぎの捨て石作戦とされ、長期化を極めた。1945年5月末に、司令部は南部へ撤退。沖縄戦は、首里攻防戦で事実上決着していたが、多くの住民をまきこんだ南部戦線は、6月末まで続いた。

 

史実が描くガマの実相

沖縄では、鍾乳洞や自然の洞窟を「ガマ」と呼ぶ。戦時中は、軍司令部壕のように軍事利用されたり、避難住民の生活の場として使用されたり、負傷兵を治療する簡易の野戦病院として使われたりした。集団自決がなされたガマも多く存在する。

読谷村(よみたんそん)のチビチリガマでは、約140人の避難者のうち83人が自決。その過半数は幼い子供だったとされる。1945年4月、米軍は沖縄本島、読谷村近くの西海岸へ上陸した。米軍に捕まれば男性は殺され女性は強姦されると思い込んでいた多くの住民らは、村内のチビチリガマとシムクガマに身を隠した。チビチリガマの現場は凄惨なものであった。親は子に馬乗りになって、「自分の息子だから自分の手で殺す」(読谷村史)として、ナイフを立て続けにふるった。ポッカリと空いた膝の傷口には、血がこぼれんばかりに溜まり、やがてウジ虫がびっしりと埋め尽くし、その傷口を真っ白に染めた。集団自決が図られたのはチビチリガマのみであり、シムクガマでは同様の悲劇は起こらなかった。

ハワイからの帰国者が「アメリカーガー、チュォクルサンドー(アメリカ人は人を殺さないよ)」と、シムクガマの避難者たちをなだめ説得して、投降へと導いたというのである。これにより洞窟内の避難者1千人前後の命が助かったとして、帰国者に対する感謝の意を込め記念碑が建立された。

戦後建立されたチビチリガマ世代を結ぶ平和の像

沖縄戦最後の激戦地となった本島南部。糸満市にある、ひめゆりの塔は、陸軍病院が置かれた壕の跡に立つ慰霊碑である。沖縄戦に動員された女学生は「ひめゆり学徒隊」として看護活動に従事した。彼女らは、ガマの中で負傷兵の治療や死体処理をも行った。ガマは、血と汗と悲鳴と怒号、ウジ虫と腐敗臭で充たされ、月経は止まり、原因不明の高熱が相次いだ。

糸満市にあるひめゆりの塔

沖縄戦では、約4人に1人の県民が命を落としたといわれる。熾烈を極めた南部戦線では、多くの一般市民が亡くなった。完全ボランティアという形でありながら沖縄戦の遺骨収集作業に取り組んでいる南埜安男(みなみのやすお)さんは、糸満市真壁地区のガマから、慶大の校章が入った万年筆を発見した。(万年筆についての詳細はこちらから)

卒業生や在学生、教職員などを合わせると、慶應義塾の戦没者は2231人。沖縄戦で亡くなったとされるのは131人であり、そのうち2人が真壁地区と推定できるものの、万年筆の持ち主はまだ見つかっていない。万年筆の他に、6400ミルという軍事関係で用いられる大型の分度器や、わずかな衝撃ですぐに発火する起爆装置、瞬発信管などが発見されている。

慶大校章入りの万年筆が見つかった真壁地区のガマ

70年以上前のモノを見つけるには、まず岩などを取り巻く植物の根を切断し、そこから4〜6メートルほど地中を掘り進める必要があるそうだ。雨などの自然現象により石や土が沈下していくため、時間が経過すればするほど遺骨取集はより困難になると南埜さんは話す。戦中を経験したヒトが段々と亡くなってゆくなか、発見・保全される限りは半永久的に姿形を保持しうるモノは、一次資料として重要な価値を有していると言えるだろう。

しかし、モノを次世代に引き継ぐにもヒトの力が必要になる。運送会社退職後、ボランティアとして自ら遺骨収集を続けてきた南埜さんだが、遺族や新聞社などから絶えず連絡が届くようになった。結果、その対応に追われ、半年ほど前から再就職を考えているものの就職活動はできていない。ガマの中から、確かに見つけ出した生々しい戦争の記録。徐にヒトが消え、近い将来無くなりうる生の記憶に代わって、記録(モノ)が歴史を安定的に伝承できる方法を模索しなければならない。

 

本島最南部にある平和の礎

糸満市摩文仁(まぶに)の平和祈念公園は、沖縄戦終焉の地でありながら、広大な太平洋を見渡せる景観スポットとしても知られる。東京ドーム8個分の広さを誇る園内には慰霊碑である平和の礎や、平和祈念堂、資料館などが建てられている。「鉄の暴風の波濤が平和の波となってわだつみ(海神)に折り返して行く」というコンセプトのもと、海に面した広場のなかで放射線状に配置されている平和の礎。命の重みを再確認し、世界の恒久平和を願うため、沖縄戦などで失われた20万人余りの人々の名を出身地や身分、国籍の区別なく刻んでいる。

平和記念公園にある平和の礎

放射線が一点に集まる広場の中央には、毎年6月23日(慰霊の日)に灯火がつけられる。多くの人が命と安寧の尊さを念じ、祈りを捧げるのだ。終戦から75年以上が経ち、生き証人が消えゆく今、いかに戦争体験を後世へ継承するかが問われている。自らの犠牲を払ってでも、平和を希求し続けた切実な声は、現代に生きる人々の耳に届くのだろうか。

弊会の会員が現地で撮影しました。今も残る戦跡を動画でもご覧ください。