フジテレビ系「ツギクル芸人グランプリ2022」で優勝を果たし、テレビやラジオでの活動が急増している関東若手漫才師のエース、ストレッチーズ。慶應義塾大学の卒業生かつお笑い道場O-keisのOBでもあるお二人に話を伺った。前編では、お二人の高校での出会いや、慶應での思い出に迫る

 

ストレッチーズ 福島敏貴さん(写真左)、高木貫太さん(写真右)

優勝後の変化

――まずはツギクル芸人グランプリ優勝おめでとうございます。優勝後なにか変化はありましたか?

(福島)僕はアルバイトをやめました。優勝の翌日にバイト先の塾に連絡を入れたんですが、退職届を出しに行く日は「サンデージャポン」の密着がありました。まさかバイトをやめることが仕事になるなんて(笑)

(高木)本当にたまにですけど声をかけられるようになってきたので、街を姿勢よく歩かないといけなくなったことですね。

(福島)一番変わったのは初めてこうやって慶應に取り上げられるようになったことです。以前M-1グランプリの予選の後に四千頭身の都築や東京ホテイソンのたけると食事に行ったときの話ですが、店にいた大学生に自分たちだけ声をかけられなかったんです。その学生のスウェットに「KEIO univ.」ってロゴがあって、慶應生に知られてないのは恥ずかしいなと思ったのをすごく覚えていて。

(高木)せめてあなたたちは僕に気付いてくださいよって気持ちにはなったよね(笑)。

(福島)これはの取材でも言ってなくて。いつか慶應の取材を受けられたら言おうと思ってました。

――そうだったんですね。ありがとうございます。

 

埼玉県立浦和高校での出会い

――お二人の出会いについて教えてください。

(福島)(埼玉県立)浦和高校入学後、バスケ部の入会のときに初めて会いました。バスケ部の1年生が集まっているのを廊下から見かけて、1人だけめちゃめちゃ髪の長いボブみたいな奴がいるなあというのが最初の印象でした。

(高木)初めてアドレスを交換したとき、こいつがメールを全部ギャル文字で送ってきて。「ギャル男だから」って、全然ギャル男じゃなかったのに。ボケたいと言うか変な奴なんだなと思ってました。

――では、お二人とも高校の頃から仲は良かった?

(福島)部活が一緒だったので、休日もバスケ部で集まったりしてましたね。土日の練習の後は高校近くの中華料理屋で「浦高ラーメン」っていう1杯300円くらいのバケツみたいな量のラーメンを食べたりして5、6時間は過ごしてました。

常に部活の輪の中にはいて、その中でも二人で目立つようなこともやってて、3年生のときにはマイク立てて漫才みたいなこともしました。高校3年間は二人でふざけてたような感じです。

――特に印象に残っている出来事はなんでしょう。

(福島)まあでもやっぱ、ミスコン。

(高木)それかい!ステージ系の方がいいんじゃないの?まああれも変な話だけどな……。

(福島)当時は男子校なのにみんなで女装してミスコンするって文化があったんです。2年生のときはバスケ部のグループで出て、3年生では二人でワンピース着てPUFFYの「愛のしるし」を歌って。そこで漫才みたいなこともやりました。一応女の子友達にメイクしてもらったりしたんですけど、ゴツくていかつくて全然かわいくなくて

(高木)男子校の文化祭って他校の女子高生が見に来る文化があって。僕らは女装して目立ちさえすれば可愛いって言われると勘違いしていたんですけど、彼女たちって要は女装したかわいい男の子を見に来てるので遠目に見てもゴツい僕らが出ても全然、何なら人も減るし。あんなに3年間頑張ってバスケやってたことを恨んだ日はなかったです。でもそれが初めて漫才というものを一応やった経験ではありましたね。

 

 

慶應への受験

――このインタビューが掲載されるのがちょうどオープンキャンパスの時期なので、受験期の話をお聞かせください。

(福島)それこそオープンキャンパスには行きましたね。でも参加者が20いなくて、あんまり人気ないのかと思ったぐらいで。…オープンキャンパスはあんまり行く意味なかった(笑)。

(高木)オープンキャンパスで配る新聞で?(笑)そんなこと言えるわけない。

(福島)でもそれ以外はずっと2つの塾で缶詰になって勉強していたので、それが3年夏の唯一の楽しみというか。それで慶應に行くイメージも湧いてきたのでよかったです。

(高木)ずっと自習はしなきゃいけないという感じだったんですけど、僕は同じ場所で勉強するのが苦手で、朝昼晩で場所を変えて自習するよう意識はしていましたね。朝はミスタードーナツ、昼は学校の図書室で勉強して、最後は塾の自習室に戻るっていうのをやってました。メシ食いながら合格体験記とか読んでましたね。

――慶應を第一志望に選んだ決め手は何だったんでしょうか。

(福島)うちの高校では国立志望がほとんど、7~8割くらいで、最初は僕も東大や旧帝大を第一志望にしていたんですけど、だんだん理科や社会がしんどなって。部活もめちゃくちゃ頑張ってて、高校の行事が多かったでそれもひたむきに頑張って、それこそ恋愛とかも。当時浦高(浦和高校の愛称)は受験生の半分以上が浪人していて、自分もそうするかと思っていたけど現役で行きたい気持ちが強くなったんです。そのときから1%くらい芸人になりたい気持ちがあって、浪人したらそれも親に言いづらくなる、1%が0%になっちゃうかなと。それで教科を絞って早慶に決めました。理社は捨てて、ほぼ数学受験みたいな感じで慶應経済とSFCを受けて。

(高木)これは非常に難しい問題なんですけど……完全に滑り止めですね……実家埼玉なんですけど、慶應も早稲田も通える範囲だし、選ぶなら就職が強くてオシャレなイメージのある慶應かなと。蓋開けてみたら神奈川だったんで、思ったより遠かったんですけど(笑)

――就職の話が出ましたが、お二人が芸人以外で志望していた職業などはありましたか?

(高木)先生になろうかなと半分くらい思ってて。教員免許も取って教育実習もやって、ぎりぎりまで悩んでたんですけど。学校の先生というよりは小さいから通っていた予備校や塾の先生になれたらいいなあと思っていました。

(福島)僕は何でもよかったですね。就職は五分五分で迷っていて、保険会社やクレジットカード会社のインターンに行ったり業界を本で調べたりしていて。でもどれもやりたいイメージがないなってなっちゃって。結構頑張って考えたんですけどね。

 

慶應での思い出

――入学後はどんな思い出がありますか?

(福島)日吉にある日吉寄宿舎という寮に住んでいました。廊下に先輩がいたら大声で挨拶して、見えなくなったら「失礼します!」って言うみたいな規律の厳しい寮で。部屋は3人部屋でプライバシーもなかったですけど、そこでの生活は楽しかったですね。

(高木)1年の頃は私立に入ったことに申し訳なさがあって、「取れる奨学金は全部取ろう」とは思ってたんですよ。基本的な「学習支援~」みたいなのを申請したりしてたんですけど、僕大学1年のときの成績がめちゃくちゃよくて。調べたら30万円くらいボンともらって返さなくていいのがあると。成績のほかに、自分がめる学問でどれだけ慶應義塾大学に貢献できるか書いた小論文が必要だったので、よく分かんないですけど適当にバーッと書いたら通って。「あなたはわが大学の学問を背負っていくに相応しい人材です。これからも慶應義塾大学の学問の発展に努めてください」という賞状が届いたんですけど、お笑い芸人になってしまった(笑)。そこはしこりが残っています。数理科学科だったので、そのとき好きだった分野とかをこういう風に研究がしたいって書いたんですよね。多分。

 

慶應に入学してよかったこと

――「慶應に入って良かった」と思った経験はありますか。

(福島)すぐ出てこない。

(高木)意外と別にモテないとか言いたいけどな。

――そうですよね(笑)

(高木)それぞれすぎるから。慶應ボーイが全員チャラいわけではないし。――でも大学名を知らない人はいないっていうのがすごいことだなと思います「頭いいんだね」みたいな。鼻につく可能性はありますけど(笑)。一個、ブランド力はあるというか。

(福島)ラーメン二郎を知れたことです。友達と日本中のラーメン二郎を食べに行ったときは、レンタカーが臭くなりすぎて5000円くらい追加料金を取られました。

(高木)(真面目そうに)あとはまあやっぱ福沢諭吉先生の存在が。何をやっても福沢先生の後輩であるという自覚は常々ありますし。

(福島)一万円札が出てくると、「先輩…。」みたいになります。一万円札を気持ちよく出せるようになった。

(一同笑い)

(高木)ここ大事なのにな、オープンキャンパス的に。仕事で一緒になるスタッフさんやタレントさんが慶應出身だと、会話が盛り上がることですかね。アナウンサーさんとか、いた界隈が違いすぎるけど(笑)

(福島)慶應出身という経歴は一生変わらないので、在学中に限らず長い人生の中で「慶應出身で良かった」と思うことは何度もあると思います。去年有吉さんのラジオでアシスタントをやらせてもらったとき、慶應出身という経歴が引っかかってくれて三田会が謎の組織みたい話が広がって定番のくだりになったので、自分の個性になるんじゃないかと在学中はみんな慶應生ですけど卒業後はそんなことないので、何かに繋がるかもしれないです。

 

(松野本知央)