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「敗戦ののち、ソ連兵が二度ほど家に入ってきたことがありました。入ってくると、色々な物を持っていかれる。当時40歳を超えていた父も兵隊にとられていたので、女4人だけで二階のテラスから屋根の上を這って、煙突の陰に隠れていました」
1945年8月の終戦当時、中学の2年生だった童話作家のあまんきみこさん。今もまだ当時のことは鮮明に覚えているという。『ちいちゃんのかげおくり』をはじめとする数々の作品で知られるあまんさんに、平和や戦争、自らの人生経験について話を聞いた。
日本への引き揚げ
あまんさんの家族は終戦後の二冬を中国で過ごしたのち、日本へ引き揚げることになった。自らの生まれ育った馴染みぶかい土地を離れることとなった、あまんさん。意外にも引き揚げ当時のことは、ほとんど覚えていないのだという。
「あの時は、熱が40度以上あったので、あまり記憶がないの。小学生までは親がついて病院船に乗れたのだけれど私は女学生でしたから、親別れがつらくて、乗ったのは普通の引き揚げ船でした。船内にいたお医者さんの部屋のベッドで寝ながら引き揚げたという感じでした」
引き揚げ先は大阪。あまんさんはそこで編入試験を受け、大阪の女学校で青春時代を過ごすこととなった。
母親との別れ、新しい出会い
「私が19歳のとき、母親ががんを患いました。看病をしていたら、私の結婚のことをとても気にしていて。ですから、私は母親の目の前で婚約をしたのです。その晩に、母は永眠しました」
常に近くであまんさんを見守りつづけてくれた優しい母親。幸せな親子の時間は突如として終わりを告げた。結果的にあまんさんは、婚約相手と若干20歳にして結婚。新米の母親として非常に心細い思いをしながら子育てを続けたのだという。
「自分の母はもういなかったし、叔母たちにも子どもはいなかったので、『母親』ということに対して手さぐりになっている自分がいました」と当時を振り返る。
そのような状況下で、若くして母親になったあまんさんの中に、「新しいことを知りたい、学びたい」という気持ちが芽生えるようになる。気がつけば再び受験勉強をはじめていたものの、どのようにして大学に行けば良いのか当時は見当もつかなかったと語るあまんさん。
だが、ある日、思いがけない形で道が開けることとなる。
「人間って一生懸命想っていれば、“みえる”ものなのよ。ちょうどそのとき、日本の通信教育が10周年を迎えていて、新聞に記念の広告が載ったんです。『通信教育ってどういうことだ?』って目を止めました。日本女子大学家政学部に児童学科というものがあると知ったときは、それはもう嬉しくて」
それをきっかけに、当時東京に居住していたあまんさんは、日本女子大学の通信教育課程に進学。子どもたちを幼稚園へ送り届けたあと、勉学に励んだ。
「これなら私も出来るんじゃないかなと思って勉強しました。『知らないことを知る喜び』があの時代にはいっぱいあったと思います」
児童文学作家 「あまんきみこ」 へ
児童文学の執筆と出会ったのも、大学時代だった。日本女子大の「児童学概論」という授業のレポートとして、あまんさんが提出した作品が教授の目に留まったのだ。
「作品をご覧になった教授が、『教室に残りなさい』というわけです。本当にびっくりしたことに、その教授は『故・與田凖一(※詩人、童話作家。北原白秋に師事し、雑誌『赤い鳥』の編集を担当)さんのところに行きなさい』と言って地図と住所を書いてくださったのです」
「なんのために自分がそこへ行くのか分からなかった」というあまんさんだが、それ以降、與田凖一さんの住居を度々訪ねることとなる。そんなある日のこと、あまんさんは與田さんから、坪田譲治(※児童文学作家。小川未明、浜田広介らと並ぶ、日本における児童文学の先駆者のひとり)が発行した『びわの実学校』という雑誌を手渡される。
「『びわの実学校』の創刊号には“阿萬さん”という面白いお母さんが登場します。自分の子どもたちにお話を聞かせるのに満足していて、『もう少し勉強しないか?』と言われても『そんなのしない』とか言っている。そういうお母さんのお話を、與田先生が面白おかしく書いた、『アリの思い出』という童話が載っていました」
子どもの頃から童話を愛好していたあまんさんは結局、自らも童話の執筆をはじめることとなる。その際に選んだのが、平仮名の「あまんきみこ」というペンネームだ。
「與田先生の童話の“阿萬さん”は漢字だったんです。つまり私の本名だったわけ。だけど、『私はあの阿萬さんじゃないよ』と言いたい部分もあったので。私は女学校に入った頃から、自分の漢字が難しいので、よく平仮名で友だちに手紙を書いたりもしていましたし。それで、『あまんきみこ』っていう筆名で投稿したのが、ペンネームのはじまりになりました」
車のいろは空のいろ
與田さんに勧められて投稿した童話、『くましんし』が『びわの実学校』の13号に掲載され、あまんさんは児童文学作家として正式にデビューすることとなる。「この運転手はもっとお客さんを乗せられるね」という與田さんからのアドバイスを受け、運転手の松井さんを主人公にした童話群が生まれた。
あまんさん初の単行本である『車のいろは空のいろ』は、それらの作品たちを一冊の本にまとめたものだ。なぜ空の色なのか?
「本を出してから気づいたのだけれど、子どもの頃は病気をして、布団で寝ていたので、窓から空ばっかり見ていたなあと。あと私は空の絵本をよく見ていましたので」と、あまんさんは、タイトルに自らの幼少期の経験が反映されたのではないかと考えている。
教科書に載った作品たち
読者の皆様の中には、小学生のころ、あまんさんの作品を教科書で読んだ覚えのある方が多いのではないだろうか。実際のところ、あまんさんの執筆した数々の作品が、日本全国の教科書に掲載され、今日もたくさんの子どもたちに親しまれている。
教科書に作品が掲載される際には、新たに校正が行われ、ときとしてオリジナルの文章の改編が求められる場合がある。それもあって、自作品の教科書掲載に否定的な見解を持つ著者もいるという。
だが、あまんさんは、「教科書に作品が載るのは嫌だという声も聞いたことはある。でも、私はそういう風には思わないのよ」と、むしろ教科書への掲載を歓迎するというスタンスをとる。なによりも、読者である子どもたちの声を聞けることが幸せだと感じているからだ。
「昔はよく本の後ろに住所が載っていましたので、よく子どもたちの手紙が来たの。そこで子どもたちと付き合えたという思いがありました。作品を教科書に載せてもらえて、ありがたいことだと感謝しています」
なぜ?どうして?という思いを喚起することが多いあまんさんの作品。子どもたちの手紙を受け取った際に、あまんさんが気をつけていているのは、「答えを与えない」ということである。
・『ちいちゃんのかげおくり』で、ちいちゃんが死んだ公園はどこにあるのか教えてください
・『白いぼうし』に出てくる女の子の正体は蝶々ですか?
40年以上も前に子どもたちから寄せられた質問を、あまんさんは今も覚えている。「返事は書くのよ。そのまま知らんぷりなんてことは絶対にしません。『宿題なので早く返事をください』なんて手紙もよくありました。その度に私は、『あなたはどう思う?あなたが思う通りで良いのよ』って書きます」と明かす。
「それは、作者が声を出してはいけないって私が思っているから。作品というのはそれぞれの人の人生で読むもの。例えば、ある作品がすごく好きだったとして、10代の終わりと30代、同じものを読んだところで感じ方が少し違う。その人の生き方で本の読み方が変わってくるわけで、それが繰り返し読む喜び、変化する喜びだと思います」
ちいちゃんには生きてほしかった
教科書で出会うあまんさんの作品たち。その中の一作、『ちいちゃんのかげおくり』は、
あまんさん自身の子ども時代と戦争体験を踏まえた、平和への想いあふれる不朽の名作だ。
ちいちゃんが空を見あげると、青い空に、くっきりと白いかげが四つ。「おとうちゃん。」ちいちゃんはよびました。「おかあちゃん、おにいちゃん。」そのとき、からだが、すうっとすきとおって、空にすいこまれていくのがわかりました―
主人公の死という、児童文学としては余りにも悲劇的であるがゆえに印象的な結末。当時は批判的な声もあったのだという。
「あの作品を出した当時、『ちいちゃんが死ぬのはいかん』とかいった意見はいくつか聞いています。私としてもちいちゃんには生きてほしかったわけで。でも何回書き直したところで、どうしてもちいちゃんは死んじゃう。だから、本当は私が一番ちいちゃんを生かしたかったんだけどなあと思っていました」
あまんさんの当初の計画では、ちいちゃんは死なず、家族を持つはずだった。だが、実際の戦争で失われていった幼い命たち同様、ちいちゃんもまた、数奇な運命を辿らざるをえなかったのだ。
「今もそんな時代だものね。ニュースを見ていたら分かるけれど、本当にたくさんの子どもたちが死んだんだものね」と、あまんさんは悲しそうにぽつりと言った。
戦争を描く。きっかけはない
『ちいちゃんのかげおくり』だけではない、『おはじきの木』や『鳥よめ』、『あるひあるとき』など、あまんさんの作品の多くに、戦争の悲惨さと平和の尊さが描かれている。
「きっかけは何もないの。だって私が子どもの頃、戦争があったわけですから。木の年輪のようになっている人生で、特に子ども時代というものは、自分の心を言葉にまとめることができない時代。私自身もうまく言葉にできなかった想いをいっぱい持っていたわけです」
だからこそ、言葉が自由に使える今、戦争について書くという行為はごく自然なことなのだという。
「『書かなければならない』ではなくて、『書かずにはいられない』ということだと思います。私の場合、子ども時代の幸せだったことと同様に、戦争も書かずにはいられない。それが今の子どもたちに響いてくれたらなと」
本当に怖い時代になった
あまんさん、そして多くの日本の子どもたちが経験した戦争の終結から、今年で77年が経つ。しかしながら、今も世界各地では戦争や紛争が続いており、人類は平和を実現できていない。特にここ最近、ロシアによるウクライナへの侵攻という未曽有の戦禍の中で、戦争のない時代を享受してきた国々の間でも殺伐とした空気が立ち込めている。
「本当に怖い時代になったと思います」とあまんさんは恐怖を隠さない。それは現在の情勢が、子どもの頃に体験した戦争を、自身の脳裏によみがえらせるからだ。
「最近、ロシアのテレビ放送で、女の子が政権の主張を代弁している映像がありましたね。あれ怖かったでしょう。でも当時、私たちはまさにあの状態だったの。『日本は正しい戦をしているのに、どうして世界中が意地悪するんだろう』って。結局日本は制裁を受けて戦争に突入していくわけだけど、その理由がよく分からなかった。あの女の子は大人になって、事実が分かったら、どう思うのでしょうか」
未来を担う世代には、絶対に戦争を起こしてほしくないというのが、現在のあまんさんの強い願いだ。
「戦争の一番の原理は『殺される前に殺す』ということだから、戦争だけは始めたらおしまいなのよ。皆さんが叡智を働かせて考えなければならないと思う。始まる前に防がないと。平和っていうのは戦争をはじめないということよ。とにかく戦争だけは絶対に起こしては駄目です」
今を生きる人たちへ
戦争や疫病に対する恐怖、将来や社会に対する漠然とした不安、はたまた山積される個人的な問題の数々。「今」という不安定な時代を心細い気持ちで生きている人たちも多いのではないだろうか。逆に、貴重な日々を、大切な仲間たちと充実して過ごせていると感じることもあるだろう。90歳のあまんさんが、そんな若い人々へメッセージをくれた。
「人生には光の時代も、影の時代もあります。光の中を歩いているのだとしたら、影のことを想ってほしいと思う。ひょっとしたら自分が影の中に他人をいれているかもしれない。私自身、子供の頃、光の中で楽しくしていたけれど、中国の人々の生活を影に追いやっていたわけで。それに気づかなかった悲しさとか辛さをずっと抱えているので。でも、いつも光の中を歩いているということではないのですよ、生きるっていうことは。だから、影の中を歩いているときは、必ず光の世界があるっていうことを忘れないでほしい。これから人生がはじまるよ。いっぱい良いことがありますよ」
お知らせ
前回の≪平和を語れば≫で取り上げた、日吉台地下壕の定例見学会が再開されました。日吉には、大戦末期に連合艦隊司令部が設置され、特攻作戦や沖縄戦などを含む、数々の指令が出されました。戦争の「加害」と「被害」の両側面を知ることのできる貴重な戦争遺跡です。ぜひ一度足を運び、戦争の歴史を「体感」していただければ幸いです。見学会の詳細などについては、「日吉台地下壕保存の会」の公式ホームページ(http://hiyoshidai-chikagou.net/)をご確認ください。
次回は第4回です。
(石野光俊)