戦後77年、日中国交正常化50周年を迎えた今年。東京・自由劇場にて、第二次世界大戦下を激動の中国・日本で過ごした李香蘭の半生が描かれた。
舞台は李香蘭が誕生した1920年代から、終戦を迎える1945年までの激動の日本と中国。日本人・山口淑子は13歳の誕生日に父親の心友の養女となり、「李香蘭」という中国名をもらう。彼女の絶世の美貌と優れた歌の才能は満洲映画協会の目に留まり、中国人の俳優として、数多くの作品に出演。日中両国で名声を上げた。
しかし、彼女が活躍の場を広げる裏では、日本軍の動きが台頭していた。そんな中、日本が第二次世界大戦に突入。日本軍のプロパガンダ作品に出演した彼女は、戦後、漢奸罪(国家反逆罪)で裁判にかけられてしまう――。
大戦に巻き込まれていく李香蘭の悲痛な運命と、日中の人々の関係の変化が悲しくも鮮やかに描き出された作品だ。
この記事では、大学生の私が本作品を通じて感じたありのままを記そうと思う。
本作の大きな特徴の1つは、戦時中の若者に焦点が当てられていることだ。第2幕には実際の特攻兵の遺書が読まれる「わだつみ」の場面が登場する。アンサンブルの皆さんの真摯な芝居から、運命を受け入れた青年たちの熱い信念がひしひしと感じられた。その中には、当時慶大に在学していた、上原良司(享年22)の『所感』も。戦時中ながら、自由主義の勝利を信じ続けた上原も終戦の年の5月、沖縄の海に散っていった。
その後、戦時中に準国歌として歌われていた「海ゆかば」とともに戦中のフィルムが映し出された。迷いがないかのように次々と海や艦隊に突っ込んでいく特攻隊、そして亡くなった方々――。思わず目を覆いたくなった。「わだつみ」の場面と相まって、ぐっと戦争が現実味を帯び、血の気が引く感覚に襲われた。
抗日運動に参加した中国の青年たちや特攻隊に自ら志願していった若者たち。満州事変後の戦いの場面では、中国の負傷兵が故郷を思いながら亡くなる。日中問わず、多くの若者が故郷や愛する人を思いながら亡くなっていったのだ。それぞれの正義があり、考え抜いた末の決断であったとしても、結果的に時代の波に翻弄されてしまう。その虚しさは言葉で表すことができず、なんともやりきれない。
自分と同年代の青年が特攻兵として戦地に赴く姿。もし今そんなことが起きたら、彼らは大学のクラスメイトであり、サークルの仲間であったかもしれない。また、兄弟であったかも……。大切な人が戦地に向かい、命を落としていく姿を当時の人々はどう見ていたのだろうか。今、アルバイトやゼミの仲間とくだらない話で笑い合い、就職活動の悩みを話し、遊びに行く約束ができる。この他愛もない日常がどうしようもなく大切に思えた。
『ミュージカル李香蘭』には、2人の「よしこ」が登場する。中国人・李香蘭として生きた、山口淑子(やまぐちよしこ)。溥儀の従妹でありながら、日本人として生きた、川島芳子(かわしまよしこ)。今回のミュージカルでは、語り手・理性的な人物として描かれ、漢奸罪で処刑された川島芳子だが、彼女の葛藤や人生にも思いを馳せずにはいられなかった。
自由劇場のホール内には浅利慶太氏の遺影と花が飾られていた。「戦争を知らない世代に戦争の悲劇を伝える」。その現場を見守ってくれていたことだろう。
生涯をかけて戦争の悲劇を、平和への願いを伝えた、浅利慶太氏。劇場では大学生世代のほか、中高生の姿も見ることができた。
終戦記念日を知らない若い世代が増えていると耳にしたことがある。先人たちが戦火の中を懸命に生き抜いた過去があったからこそ、今があることを忘れてはならない。私は浅利氏の大学の後輩として、この舞台を通じ、平和への願いを新たにする。
世界はまた同じ過ちを犯していないだろうか。平和を願う先人たちが望んだ社会は実現しているのか。この作品が後世に語り継がれますように……。
(加藤萌恵)
※慶應塾生新聞会では、『ミュージカル李香蘭』の稽古場も取材しました。舞台完成までの裏側をぜひご覧ください。記事はこちらから
『ミュージカル李香蘭』
日時:2022年4月23日(土)~5月8日(日)
※『ミュージカル李香蘭』は出演者の新型コロナウイルス感染が確認されたため、5月3日から千秋楽までの公演の中止が決定しています。
場所:自由劇場(〒105-0022 東京都港区海岸1-10-53)
チケット:全席8,800円(税込)
主催:浅利演出事務所/協力:劇団四季
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