日吉と世界

「元来、日吉の予科(※現在の大学教養課程)では外国語学習がさかんに行われていました。まさに外国語を学ぶことで、「世界」に開かれた窓としての役割をキャンパスが果たしていたのです」。

その理念を表すかのように、世界地図を描いたカップが今もキャンパスには残っている。また、現第1校舎の壁面レリーフには、皇紀(大日本帝国で使われていた暦)と西暦(国際社会で主に使われていた暦)が併記されている。

だが、校舎には海軍の軍令部第三部(情報部)が入り、ラジオや新聞、無線を通じた情報収集活動が行われるようになった。

「『世界』の言語を学ぶキャンパスが、皮肉なことに『敵国』の情報を収集する場へと変わってしまいました。当時の学生は、キャンパスが『1隻の軍艦』のように見えたと書き記しています。そこに『理想的学園』の姿は見る影もなかったのでしょう」と阿久沢教諭は語る。

日吉第1校舎前に残る世界地図を描いたカップ

日吉部隊

「当時の塾生たちの手記をみると、『いつのまにやら』キャンパスへ軍隊が来たという言葉があります。彼らにしてみれば、春休みが終わってキャンパスへ戻ってみると、知らぬ間に校舎に海軍がいたということになるのでしょう。今でも気づいたらそうなっていたということは多々ありますが、私はこの『いつのまにやら』という表現が非常に大切であると感じています」と阿久沢教諭。

日吉の地下壕で任務に勤しむ多くの兵士たちは、そこが「連合艦隊司令部」であると知ることはなかった。「日吉部隊」と呼ばれていたためである。

「戦争中の日吉キャンパスには本当に多様な人々がいました。まずはキャンパスですから学生がいましたし、近隣には空襲を受けた住民の方も住んでいました。連合艦隊司令部には海軍の最高位の人々から、空腹や体罰、過酷な軍務に耐える少年兵までがいて、軍令部第三部には事務仕事をする良家の女学生や翻訳などに従事した日系2世、地下壕の建設現場には朝鮮人労働者も働いていました。占領後はアメリカ軍も進駐しています。ある意味、戦争の『加害』と『被害』両方の側面を含む、多面的な場所であるといえるでしょう」

あどけない表情の残る若者たちも動員されていた(慶應義塾福澤研究センター提供)

連合艦隊司令部

前述したように、絶対国防圏が崩壊したのは1944年7月だ。一方、戦没者の91%は同年1月以降に集中しているといわれる。

「もし、絶対国防圏が崩壊した際に戦争をやめていれば、日吉に連合艦隊司令部が来ることもなかったし、最後の1年で200万人以上の犠牲者を生むことはなかったでしょう。一言でいえば、日吉は命令を下し、戦争を継続し続ける場所であったということです」。

1944年10月のレイテ沖海戦-。この戦い以後、「特攻作戦」が盛んに行われるようになった。阿久沢教諭は、「日吉と特攻作戦の関係は極めて深い。ほとんどの特攻はこのキャンパスから命じられたといっても過言ではない」とする。日吉キャンパスで働く少年兵達は無線機の音に耳を澄ましながら、遠い海の果てで死にゆく若きパイロット達の最期の通信音を聞き続けたという。

かつて陣頭指揮を伝統としていた日本軍の指導者たちは、それでもなお、地下壕を掘り続け、地下に潜り続けた。「軍は『1億総特攻』という勇ましい言葉で、兵士を戦場に送り出しました。ですが、理屈は抜きにせよ、日吉の『穴』(地下壕)から早く出てきて、陣頭で指揮を執れ!というのが前線で戦うものの正直な気持ちだったのではないでしょうか」と阿久沢教諭は推測する。

結局、終戦を迎えるまでに、慶應義塾の在学生3000人以上が動員され、冒頭の遺書を書き残した上原良司を含む約400人が帰らぬ人となった。塾員の犠牲者は、2200人以上にのぼる。

 

終戦・占領

1945年8月15日-。日吉キャンパスは静かに終戦の日を迎えた。その後、膨大な数の文書が、淡々と燃やされ続けていたという。大切な書類を処分したという彼らの姿勢は、現代でも示唆に富む。

「その後、米軍がやってきて、『承諾を求めない立ち退き命令』という形で日吉のキャンパスは接収されます。今の日吉記念館の前の広場には、米軍のジープが並び、バスケットコートが出来ました」。立ち退きは1日で行われ、「最高の環境」は半ば強引に米軍のものとなった。

現在も米軍が「確かに居た」という痕跡が、日吉キャンパスには残っている。だが、そうした施設は保存状態が悪く、廃屋のような状態だ。阿久沢教諭は、「しっかりした形で保存しなければ、近いうちに、貴重な研究と教育の『財産』が失われてしまう」と危機感を募らせる。

それらの「痕跡」の中には、きわめてシンボリックなものもある。寄宿舎の浴場棟がバーラウンジに改装され、その入り口に米軍が取り付けた木の柱には、「下地」仏典『菩薩戒義疏』の切れ端が無造作に貼られているのだ。その内容は仏教の47の戒めのうち、「驕慢」を戒める一節だという。

「おごり高ぶることを戒めたこの言葉は、いったい誰に向けられたものなのか。ここにいた帝国海軍か、それとも占領した米軍か。それとも戦争に協力することになった慶應義塾に対してか。もちろん文学的な想像にすぎませんが、非常に象徴的だとも言えるでしょう」と阿久沢教諭。

もしくは、歴史と史跡を軽視し、過去の過ちに目を向けようとしない私たちの態度を戒めているのかもしれない-。そのように記者は考える。

現在の日吉第1校舎(現・慶應義塾高校)

日吉で学ぶ

一部の学部を除き、慶應義塾の学生であれば、たいていの人が日吉で勉学に励むだろう。そんなとき、キャンパスの「歴史」の持つ声に耳を傾けて欲しいと阿久沢先生は考えている。

「これほど本格的な戦争遺跡が大学のキャンパスの中にあるという例は、世界でも稀です。慶應義塾には平和な社会を作っていくために立ち止まって考える、きわめて『豊かな研究と教育の資源』があるということです。日吉の歴史を知り、自分の問題として捉えてください。同じ事が繰り返されないように、リーダーとしての正しい在り方を学んで欲しいと思います。そして、この『財産』をいかに『学び』に活用していくのか。私たち慶應義塾の抱える大きな課題であると考えています」

 

石野光俊

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第3回につづく

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