慶大三田キャンパスの一角にある、福澤公園。並べられたベンチに座り、憩いのひとときを過ごせるこの場所の正体を、知らずに利用している塾生も多いのではないだろうか。実は、慶應義塾の創設者である福澤諭吉が晩年を過ごした旧居跡なのだ。なぜこの場所に公園として残っているのか。福澤はここでどんな家に住み、どんな暮らしをしていたのだろうか。

三田キャンパスの旧図書館内にある慶應義塾史展示館に、大正12年当時の三田キャンパスと旧福澤邸(現福澤公園)の復元模型がある。模型の復元作業にあたった大学院生の白石大輝氏、展示館専門員の横山寛氏に取材した。「客の多い家だったと言われています。家族や客人が増えるたびに福澤は自邸を建て増ししていきました。福澤は建てるのが好きな人だった」と白石氏。主に建て増しに携わったのは、福澤のお気に入りであった大工の金杉大五郎だ。増築当時の図面(江戸東京博物館蔵)も残っている。

明治8年、現在の福澤公園の位置に福澤邸として築かれたのは洋館だった。その後、和風建築の方が大人数の接客が可能であることなどから和風に建て替えられた。とにかく人との交際を重視した福澤は庭を造り込むようなことはしなかったという。この地を訪れた人物は、木戸孝允、大隈重信、渋沢栄一などそうそうたる顔ぶれ。先客がいるからと桂太郎を30分待たせたという印象的なエピソードも残る。「人に優先順位をつけず、平等に扱うという福澤の性格が滲み出ていると思います」と白石氏は語る。

実際に福澤公園に足を踏み入れると、豊かな緑の中にベンチが並んだ癒しの空間が広がる。公園の外側、駐車場に面した部分をよく見ると、途中で途切れたスロープのようなものが見える。当時福澤邸の主要な出入り口の一つだった場所だ。道路の拡張工事によって下方は惜しくも削られてしまったが、現存する中で当時の彼らの生活を想像できる、大きな見どころの一つだろう。

出入口のスロープの名残

足元にも目を向けてみてほしい。「適塾蘭」と呼ばれる植物は、福澤が若い頃に学んだ大阪の私塾・適塾に生えていた薮蘭であり、緒方洪庵の曾孫・富雄氏の好意で移されたものだ。

奥に進み、立ち入り禁止の部分を覗くと、家や階段の名残を見ることができる。いくつかの部屋の土台と思われる遺構が残っており、そのうち一部屋だけ囲うようにレンガが配置されている。邸宅を構成する建物のなかにはレンガ造りのものがあったという記録と照らし合わせると、そこは洋風の部屋であったと推測できる。福澤邸には和洋多様な客間が用意されていたとされ、福澤の客人を大事にする性格がうかがえる。

遺品からも、福澤の人物像が見えてくる。健康のため、散歩、居合、米つき、乗馬などいくつもの日課を持っていた福澤。銅鑼(どら)は、毎朝の散歩の前に打ち鳴らし、同行する塾生を集めるため使われたそうだ。初期の塾生にとって福澤は身近な存在。福澤にとっても、塾生との交流は大事な生活の一部だったのだ。福澤の私物では、著書執筆に使ったとみられる文房具も保存されている。持ち運び式の机で、家の中で自由に場所を移動しながら執筆にあたっていた。遊ぶ子どもの近くで書くこともあったようだ。

福澤の旧居は、どうして現在の公園という形になったのだろうか。ここでは福澤の死後もその親族が暮らしていた。しかし戦時中、空襲にさらされ焼失してしまう。記録によると、戦後すぐの時期から、旧居跡はすでに公園として利用されていたようだ。「戦後、旧居跡はそれ以外の大きな用途に利用されることはなかった。むしろ福澤邸の跡地だから保存しようというのもあったのでしょう」と横山氏は話す。この地でたくさんの人と交流を深めていた福澤。彼をよく知る人々の意向によって、すぐに新しい建物を建てることが避けられ、人々の交流を育む公園という形で残されたのだろうか。

明治末頃の福澤邸(提供:慶應義塾福澤研究センター)

明治34年、福澤はこの家で、脳溢血により66歳で息を引き取った。公園には「福澤終焉の地」として石碑が立てられている。

 

家は、その持ち主の人間性を物語る。福澤公園で、彼の暮らしぶりを想像して楽しんでみては。

三尾真子