慶大三田キャンパスの正門を上がり南西方向に進むと『三田演説館』があるのをご存じだろうか。慶應義塾史展示館の横山氏に話を聞いた。
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慶應義塾創立者・福沢諭吉は「スピーチ」を「演説」と翻訳した。当時の中心はヨーロッパやアメリカの学問であり、日本人は原書を翻訳して学ぶ。自分の意思をより多くの人に届ける手段が日本語での演説だと考え、普及を目指した。
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明治4年、慶應義塾が三田に移転し、間もなく明治6年から仲間内で演説の練習を始め、一般公開に向けて翌年明治7年、三田演説会を組織した。それに伴って、演説専門の場所として明治8年5月に三田演説館が開館した。
当初は現在の旧図書館と塾監局の中間に位置していた。現在の東門が正門であったために、入った正面に演説館が見え、様々な人が訪れやすい場所だった。関東大震災での他施設倒壊の影響で、大正13年現在の稲荷山に移築された。戦時も演説館は空襲の被害を免れ、当時の姿が残されている。
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福沢諭吉や尾崎行雄、犬養毅など多様な人々が三田演説館の演壇に立った。内容は多岐にわたり、学術講演だけでなく政治的話題なども扱った。植木枝盛は青年期、三田演説館に熱心に足を運び、のちに自らも演説を始めた。口頭による意見発表の習慣が無かった日本において、三田演説館開館後、自由民権運動の流行とともに演説の文化はすぐに広まった。
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現在の使用用途は三田演説会の講演や名誉学位の授与式、毎年5月15日「福澤先生ウェーランド経済書講述記念日」の各種講演会の開催だ。福沢諭吉と初期の慶應義塾入門生が組織した三田演説会から通し番号が振られ、2021年12月14日には第710回が開催される。
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三田演説館の内部に入ると、正面に演壇があり、背後中央には福沢諭吉肖像画が掲げられている。腕を組んで立つ姿は、福沢自身のとうとうと述べる演説のスタイルを描いているという。2階建ての吹き抜けになっており、1階2階計約150席用意されている。
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三田演説館はニューヨーク副領事・富田鉄之助から送られてきた、アメリカ公会堂の図面を参考にして、近世以来の日本人大工によって設計された。
欧米の建築知識がない人が作る「偽洋風」は明治初年の流行りで、第一国立銀行や築地ホテルにも見られるものの、東京で現存しているのは三田演説館のみだ。寄棟造桟瓦葺屋根、火事に強いなまこ壁、洋風の上下に開く窓が特徴である。
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福沢諭吉は「其規模こそ小なれ、日本開闢以来第一着の建築、国民の記憶に存すべきものにして、幸に無事に保存するを得ば、後五百年、一種の古跡として見物する人もある可し」と三田演説館の貴重性を予言している。早くも大正4年、東京府指定史跡建造物に、昭和42年には重要文化財に指定された。
日本最初の演説会堂・三田演説館は、慶應義塾の目的である全社会の先導となることを果たし、和洋折衷の文化を反映した証拠であるのだ。
(高橋明日香)