左から武藤選手、小池選手、山縣選手、高桑選手

武藤弘樹選手 (アーチェリー・環境情報学部卒業)

―武藤選手が最後に10点を取らないと勝てないという状況でしたが、どのような心境で射線に立たれましたか。また撃った瞬間に勝ったと感じましたか。

緊張はしましたし、今どういう状況で何を求められているかを考えました。しかし思い切ってやることをやって負けたとしても仕方ないと覚悟を決めました。僕たち選手は、撃った瞬間に的に当たったか、どちらの向きに外れたかがわかりますが、当時は98%入るだろうという感覚がありました。

―試合終了後はチームのメンバーとどのような会話を交わされましたか。

僕自身は決めたらヒーロー、外したら自分の責任という天国と地獄の境目にいる立場だったので、「おいしい所をもっていった」と言われました。3人でメダルをとれてよかったと話していました。

―武藤選手のインスタグラムで、ご自身のことを「血液に赤みそが流れている人間」と表現している投稿を拝見し、地元愛が強い方だと感じました。今の武藤選手のルーツとなっているような地元での思い出深い経験はあるでしょうか。

中高6年間は愛知県でアーチェリーをしていました。自主性を大事にする学校でしたので、愛知での経験が今の土台になっています。アーチェリーは個人競技という側面が強く見られがちですが、大学に入てからは団体戦や大学対抗戦などを通し、チームでの戦い方や、皆で勝つとはどういうことかを学びました。

小池祐貴選手 (陸上・総合政策学部卒業)

―現在日本のトップアスリートでは、100mと200m両方に取り組まれている方は多くはないですが、種目を絞らずに両種目に取り組んでいる意図は何でしょうか。

僕は200mが好きで専門としていたのですが、職業として陸上選手をやっていく中で1番求められているのは100mであると社会人1年目の頃に強く感じました。自分の好きな200mは続けながら100mでも結果を出すのが僕の仕事だと思い100mに取り組むようになりました。種目が多い分、他の人よりも身体のケアに気を使遣っていると思います。

―昨年の自粛期間中に手作りスイーツの投稿をSNSで拝見しました。甘いものはよく食べるのでしょうか。また試合前は甘いものは控えるのでしょうか。

料理を作るのは好きですが自分では食べず、人にあげることが多いです。シーズン関係なく生成された白い砂糖は身体に良くないので基本的に口にしません。現役の間は、体重などの管理は試合前だけではなく常日頃から行っていくつもりです。

 

山縣亮太選手 (陸上・総合政策学部卒業)

―2月から高野コーチと一緒に練習に取り組むようになったと伺っていますが、コーチと一緒に練習をするようになったことで変化したことは何ですか。

これまで自分の感覚に頼りがちなタイプでしたが、コーチの目が入ることによって、客観と主観のすり合わせができるようになったことが大きな変化です。自分で正しいと思っていた動きやトレーニングが、高野さんから見ても正しかった時は自信になります。また高野さんは練習メニューなど色々な意味で引き出しが多く、自分に無い部分もお持ちで、これらが新しい刺激となっています。

―手料理の写真を多くSNSに上げているイメージですが、普段料理をするときに気を付けていることはありますか。

作るのが好きですが自分でも食べてしまいます。料理をするうえで気を付けているのは栄養バランスです。タンパク質・糖質・脂質の3つのバランスを時期によって変えながらコントロールしています。身体のコンディションがもろに結果につながる競技ですので、非常に気を遣っています。

 

高桑早生選手 (パラリンピック陸上・総合政策学部卒業)

―パラリンピックの試合を拝見して、ガイドランナー・義足の技師・コーチなど支えてくれる方々も選手に多く影響するのではないかと感じました。ご自分の周囲の環境の強みは何だとお考えですか。

どのスポーツの方も複数の方に支えられていますが、普通の陸上に比べて、パラ陸上で珍しいのはメカニック(義肢装具士)の存在だと思います。義足を作って調整してくださるメカニックの方とコミュニケーションを取りながらトレーニングをしたり、どうしたらさらに走りやすい義足になるのかを調整したりします。それ以外は他のスポーツと同じように、コーチ・栄養士・トレーナーが数名いるという形です。これらの方々がすぐ身近にいて、コミュニケーションを取れる状態でサポートしてくださっているのが私の強みだと感じていますが、他の選手も同じような体制で世界と戦っていらっしゃいます。私も場合は義足がないと生活できないので、それを調整してくださる方々にはいつも感謝しています。

―高校・大学と高野コーチのもとで陸上を続けてこられて、取り組み方に変化はありましたか

本格的に競技をみてもらったのは大学生からになります。それまではパラ陸上は今ほど情報もなく、専門に見てくださるコーチもほとんどいませんでした。その中で、密にコミュニケーションをとって私の走りの状態を共感しながら考えてくださるのが高野コーチでした。彼とトレーニングをし始めてから、山縣選手も仰っていたように、主観と客観の一致が明確にできるようになり、記録が伸びました。また当時は競技人口が少なくライバルと呼べる人物が自分しかいなかったので、常に自分との闘いでした。

―2017年にファッション誌MOREのモデルをされており、メイクやスキンケアにこだわっていると伺いました。一方高校時代にはオシャレに無頓着で周囲から怒られていたとのことですが、オシャレに目覚めたきっかけは何でしょうか。

大学生活は忙しくおしゃれに気を遣う余裕がありませんでしたが、外で太陽を浴びながら運動する生活を送っていたので、乾燥や日焼けをしすぎないように基本的なところは気をつけていました。一番変化があったのは髪を切ったときです。私はパラリンピックもこの招待会も3回目の参加になりますが、過去2回は髪が長い状態でした。それをバッサリ切ってから、気分を変えて色々なことに気を遣うようになりました。