6月8日。日本犯罪史に少なからざる紙数を持って記録されるであろう惨劇が起こった。秋葉原通り魔事件である。
当日の夕方、私はテレビでこの事件を知った。自分の耳を疑った。映画か何かだと思った。世界を支える芯のようなものがぐらぐらと揺れた。
今だから言えることだが、私は報せを聞いたとき、確かに〈神〉を思った。祈るでも、罵るでも、嗤うのでもなく、ただそこに〈神〉は居ない、ということを感じたのだ。
遠藤周作、晩年の長編小説『深い河』。今月紹介する名作である。慶應義塾と縁が深く、戦後日本文学おいて重要な作家の1人である彼も「第三の新人」の1人である。
遠藤文学において最も重要なモチーフが「キリスト教」だ。その集大成、遠藤の辿り着いた結論がこの『深い河』である。
5人の男女の群像劇。
妻の臨終の言葉に突き動かされるように、妻の生まれ変わりを捜す磯辺。
かつて魂の繋がりを感じた九官鳥に報いるため、インドの野生保護区を訪れる童話作家・沼田。戦争中、ビルマでの戦闘に加わり壮絶な体験をした木口。敬虔なクリスチャンで、神父となることを目指すも、西洋合理の極みとも言えるキリスト教会に馴染めず、異端者としてインドへ流れ着く大津。その大津の信仰心を弄んだ美津子は、愛の感情に確信が持てず、自分をひきつける何かの正体を知るため大津の消息を追う。
彼らはそれぞれ心に淀みを感じながら、インド、ガンジス河の辺に佇む。
仏教発祥の地でありながら、カースト制を初めとするヒンドゥー教が多数派を占め、イスラムの鐘が鳴り、マザー・テレサはダージリンへ向かう汽車の中で神の啓示を聞いたという。
様々な宗教宗派、富める者病める者、人間と動物。あらゆるものを受け入れ流るる聖なる河・ガンジス。イエスの愛はキリスト教徒だけでなく、あらゆる垣根を越えたより普遍的な救済ではないのか、と考え続けた遠藤が、ガンジス河にその答を見つけたのは自然なことに思える。
この作品は遠藤の死後、『沈黙』と併せて、棺の中へ入れられた。それ程彼にとって思い入れの強い作品だったのだろう。
もし〈神〉が愛であるならば、私は〈神〉を信じてもいい。それは全てを包み込む優しさであり、時に暴力的に己を罰する厳しさでもある。愛は美しく、そして恐ろしい。愛と愛が触れ合う喜びと悲しみこそが、人間の生きる動機なのかもしれない。
秋葉原の惨劇に愛はあったのだろうか。昨今の、理由無き無差別殺人に愛はあるだろうか。この〈愛〉なき時代。私たちは何をもって生きていくのだろう。
(古谷孝徳)