時々、どうしても眠れない夜がある。

真っ暗な世界で起きているのは自分だけのような気がしてきて、寂しくて悲しくて泣きそうにすらなる。寝よう寝ようと努力するほどますます目が冴えていく。

寝返りばかり繰り返すそんな夜は、豊洲市場のセリを思い浮かべる。この広い世界で、少なくとも早朝のセリに参加する人々はもう起きているはずだろう。この世で今起きているのは自分だけじゃないのだ。少し安心する。

そんな夜にもう一人、必ず思い浮かべる人がいる。

木村愛。

彼女の顔も声も知らないが、彼女が走り抜けた高校三年生の一年間を私は知っている。

 

 

綿矢りさ氏が書いた「ひらいて」。

寂しい時に出会った本だから、寂しい夜に思い出す。あれは進路選択に追われ、一緒にふざけ合っていた友達が実はしっかり将来を見据えていたことに傷ついた日の帰り道だった。当時は模試の成績アップのために小説ではなく新書を読むことを勧められていた時期でもあり、何かの目的のために読書をしなければいけない環境になったことに猛烈な寂しさを感じていた。置いていかれることが嫌いで人の変化を寂しがる、わがままな私は、変わりたくなくて、みんなにも変わって欲しくなくて、駄々を捏ねながら定期考査前だというのに本屋で現代小説を漁っていた。それでも定期考査前だという理性が働き分厚い本は購入できなかった。今は読書じゃなくて勉強する時なんだろうな。自分が今すべきことはわかっていたけれど、それでもどうしても小説が読みたかったから、目についた中で一番薄い本を選び、買って帰った。それが「ひらいて」だった。

端的にいうと「ひらいて」は恋愛に全振りしてしまう大学受験生の話である。中学高校を女子校で過ごした私は同世代に向ける恋心とは無縁な生活を送っていたけれど、なぜか「ひらいて」の内容は痛いほど理解できたし、あまりに心に響きすぎて読んでしばらくは木村愛の存在が頭から離れなかった。容姿端麗でなんでも卒なくこなす愛。人の気持ちを読み取るのがうまいので友達付き合いも難なくこなし異性からもモテる。しかしそれゆえに非常に自信過剰、人のことをどこか見下している。そんなふうに器用に生きてきた彼女はある時、同級生の男子を好きになる。今までに抱いてきた恋心とは違う、本当に本気の強い恋心。愛はその男子を手に入れようと躍起になる。道を踏み外すまいと生きていたはずの彼女は、気付くとその男子のために全てを投げ出してあの手この手でアタックし続けている。痛快恋愛劇のような紹介をしてしまったがそんなポップな話ではない。あの手この手とはなかなかに激しく熱烈、時には無駄で残酷で薄情。読んでいるとつい、ああ、積み上げてきた過去が、もったいないなどと思ってしまうが、そんなことを愛に言ったらくだらないと噛みつかれるだろう。そもそもそんな第三者の声など耳に入らないかもしれない。

なんでも器用にこなしてきたように見える彼女の過去には彼女の必死な努力が存在していたのだ。天性のものではない、手に入るまで努力する。愛のそのひたむきさを私は愛したが、彼女の恋した相手は一切彼女に振り向かないどころかその必死さを欲深いと軽蔑する。

さてこの恋が叶うのか叶わないのか、それは是非本を読んでいただきたいところである。

 

 

 

話は変わるが私は年度始めが苦手である。みんなが前を向いている中、自分だけ取り残された気になるから。実際はそんなことないし、年度始めを苦手とする人は私だけでなくかなりの割合で存在するのではないかとも思う。だが、この世界で今起きているのは私だけじゃないかと考える夜同様、私だけが置いていかれた気分になってしまう。

 

そんな寂しい気持ちになった時は「ひらいて」に限る。

 

自分が今していることはあっているのか?このままで大丈夫?将来が心配、というか何もうまくいかない!

そんな私のモヤモヤした気落ちを木村愛はなぎ倒してくれる。将来や築いてきた過去なんてどうでもいい、今のためだけに走り続ける爽快さ。絶対に間違いのない道を上手に歩いていた頃の愛より全てを投げ出して好きな人のもとへ走り続ける愛の方が生命力に溢れていて本当にかっこいい。

 

しかし私には愛のような度胸もないし、自分に振り向いてくれない人に全てを賭けられるような一途さもない。そもそも愛のようになりたいと思わない。だから恋愛に限らず現実世界で愛の行動を倣おうとは微塵も思わない。しかし心の中に一人愛がいると良い。よく地球規模で考えれば自分の悩みなんてちっぽけ、という励ましを聞くが、私は自身の悩みと地球規模の悩みが乖離しすぎていてどうしてもその乗り越えかたを実践できない。そこで、自信がなくなった時、寂しい時、悲しい時、とにかくマイナスな感情が心を占めてしまったら心の中に愛を登場させる。

自分自身が間違っているかなんてそもそも考えもしない、好きな人のためだけに暴れまくる愛のその姿を思うと小さな悩みなんてどうでもよくなるのだ。

 

 

文庫本で183ページ。文体も重くなく非常に読みやすい。「ひらいて」に出会ってから私はすっかり綿矢りさ氏の虜になり彼女の執筆した作品を読み漁った。高校一年生の夏、寂しさから出会った一冊の本。当時の寂しさが今の寂しさを救っている。

 

小島毬