書店が持つ、あの何とも言えない雰囲気が好きだ(図書館も好きだけれど、どちらかと言えば書店の雰囲気が気に入っている)。

最近の書店はCDショップなどが併設されて、賑やかな音楽が流れているということも少なくない。もちろんそれはそれで面白いのだが、私はやっぱり、あの静かな雰囲気のなかで本に囲まれる時間が好きでたまらない。

コロナ禍で上京ができない今、私は地元にある書店でバイトをしている。商店街に並ぶ書店ではあるが、まるでオシャレなカフェのような雰囲気で、ここだけとても落ち着いた時間が流れている。そんな環境でちょっと働いて、お金がもらえるのだから、私にとってはけっこう幸せな仕事だ。お客さんが少ないときには、陳列棚の整理をするついでに、気になる本を開いてみることもあるが、これはもちろん他の店員には内緒。

さて、昨年は新型コロナの影響で、書店でのバイト以外はパソコンとにらめっこする日々が続いた。森見登美彦さんの小説『夜は短し歩けよ乙女』を久しぶりに読んだのは、そんな時期だった。

この作品は京都が舞台となっていて、2人の男女を軸とした、1年間に及ぶ様々な人間模様の交差を描いた作品だ(と私は思っている)。主人公の冴えない男子大学生と、ヒロインの女子大生である黒髪の乙女の2人が、身のまわりで展開される物語に巻き込まれていく様子を、“人と人の巡り会い”という形で巧みに、でもユーモラスに描写しているように感じられる。ちなみに、2017年にはアニメ映画版も公開されており、こちらでは夏の一夜の物語として描かれているのが特徴だ。

ところで、『夜は短し歩けよ乙女』には、こんな言葉が登場する。

「こうして出会ったのも、何かの御縁」

ある場所で、ある特定の人と出会うという行為は、何かしらの縁に導かれたがゆえの出来事だと思う。その1つ1つにきっと意味があるはずだし、何かしらの意味を見出したい。

1冊の本と出会うことも、何かの御縁ではないだろうか。私はよく、散歩でふらっと書店に入ってみて、とりあえず店内をゆっくり一周して、目にとまる本があったら手に取ってみる。同じ書店に3時間もいたり、学生のくせに老後の人生に関する本を手に取ってみたり、未読の本が3冊ある状況で新たに2冊買ってしまったり(最近は金欠なので気軽に購入することは控えているが…)。なんだか書店で迷子になっているような気もするけれど、こんなことをするのがけっこう楽しい。

『夜は短し歩けよ乙女』という作品に出会ったのも、こうしてふらっと書店に立ち寄ったときのことだった。小説のコーナーで目にとまったタイトル、印象的な表紙の絵、最初に開いたページで見つけた面白い台詞…すぐに両親にお願いして買ってもらったのが懐かしい。私にとってこの作品は、“人と人との巡り会いの尊さ”を教えてくれた教科書であり、「こうして出会ったのも、何かの御縁」という大切な言葉を授けてくれた先生であり、人生の1冊とも呼べる本である。

書店や図書館のなかで迷子になってみると、自分が予期しなかったものと出会わされることがある。全く興味がないはずのジャンルの本が、自分に何かを教えてくれることだってある。それは、学習参考書に載っている単語や計算式といった次元のものではなくて、もっと人生という大きなスケールにおいて有益なものである。それだけではなく、そもそも自分の知らないジャンルに出会わせてくれることだってある。

だから私は、「本と出会うことも御縁」だと思っているし、そうして出会った本から、何かを学ぶことができたらと願っている。映画や音楽も良いけれど、物語と言葉が描かれているモノに直接触れること、物語や内容の厚さに触れることは、本でなければ決してできない。書店や図書館を歩き回ることも含めて、本を読むのは素敵なことだと、私には思えるのだ。

最近は、オンライン授業やレポート課題、資格の勉強などに追われて、読書をする機会は減ってしまった。そこに新型コロナの流行も加わって、書店でのバイト時間以外は、のんびり書店や図書館を巡ったりすることも自粛せざるを得なくなった。とても残念なことではあるが、今の状況が落ち着いたら、またいつか、知らない本と出会う旅をしたいと思っている。御縁が、新しい本と巡り会わせてくれることを信じて。

 

(ヒトガタ)