YMOとアイドル 「みんなに喜ばれるのは本望」

―Yellow Magic Orchestraとして1978年にデビューする際、バンド名に「Yellow」を付け、衣装は人民服を着ていた。どのような意識で世界の舞台に出たのですか。

自分たちはユーモアだと思っていたんです。和服をまとって身構えて和太鼓やるわけじゃない。伝統から切り離されて教育されているんで、日本のことをよく知らない。影響されたのは西洋音楽だから、仲間はどちらかというとイギリス人だったりドイツ人だったり、そういう人たちにうけるのはとても嬉しかったんです。例えばドイツにはKraftwerkというテクノのグループがあって、その人たちにすごく影響されました。聴いてみて追いつかないなと感じた。構成主義的で非常にしっかりとしたコンセプトがドイツ的なんですよ。自分たちにはそういうことはできないなと。鋼のようなコンセプトは持っていない。だったら根も葉もない軽薄な音楽も面白い……それが東京的なんじゃないかという気持ちでやったんですね。

―YMOが日本で大ヒットしたことをどのように感じましたか。

日本でうけると思っていなかった、あまりにも違和感があるだろうし。外国に行って演奏する中で反応がまあまあ良かったので、悪くはないな、程度に考えていたんです。一通り外国を回って帰ってきたら、「RYDEEN」が大ヒットしていたんですよね。それはもう自分の中では予想外の出来事で対応できませんでしたね。パチンコ屋で流れていたり、運動会で流れていたりとか。音楽的な範疇を超えていましたのでびっくりしました。

―自分の音楽が大衆に消費されることに抵抗はありませんでしたか。

そういうことはないです。みんなに喜ばれるのは本望ですから。というのは子供の頃からヒット曲を聴いてきて、当時は良い曲がヒットする、非常にストレートな世界だったんですね。自分でも良い曲だと思うし、みんなもヒット曲というのは耳慣れていてしかもどこかが違う、感覚が広がる刺激があってワクワクするわけです。でも70年代以降はそうでもなくなってきて、これのどこがいいんだろうっていう音楽が日本でヒットしていることが多くて。だから日本の音楽的な風土の中では自分はそんなに立つ場所がないだろうという気持ちでやっていました。でもその後、松本隆と組んでアイドルに曲を書いてヒットした時は、ちょっと嬉しかったです。自分で努力したせいなのかもしれないけどね、分かりやすく作るとか。それでも今聴くととても分かりにくいかもしれない。歌った人の人気におんぶしただけかもしれない。

―ヒット曲を出さなければいけないというプレッシャーで限界に達することはあったのですか。

それはどんな人も、僕もそうなんだけど、ちょっと違うのはヒット曲専門家じゃないので、ソロをやるとかちゃんとした自分の場所というのは持ってたわけですよね。職業作曲家だったら、多分そういうことで非常に浮き沈みがあったり、長い間続けられなかったり……それを歌う人たちもそうだろうし。ヒット曲というのは魔物なんでヒットすればすごいけどその後は大変なんです。僕もそういうことに少し片足を突っ込んだ程度なんですけどすごく不安でしたよね。例えば松田聖子さんは歴代1位を取っていた人ですからね。自分が書いた曲が30位くらいだったらダメなわけでしょ。幸い、勢いで1位を取っちゃった。それでホッとするわけです。でも僕はそれをずっと続けるわけにはいかなかったんですよ、できるわけがない。だから職業作曲家の人たちはすごいなと思います、筒美京平さんとか。

>>次ページ:失われて気づく「東京」