今年開催された「あいちトリエンナーレ2019」内の展示「表現の不自由展・その後」は、賛否問わず大きな議論を生んだ。開催が終わった今もなお、多くの人が議論を交わすこの問題。果たして、どのような論点が存在し、私たちは何を学ぶべきなのか、考える連載。
第1回目は、現代思想(仏・伊)を専門とする、慶大理工学部外国語・総合教育教室所属、高桑和巳教授にインタビューした。
「表現の不自由展・その後」を巡って
そもそも、世間の人々が一般的に持っているような情緒に対して、疑問符を付すのがこの企画の狙いです。そのため、市民の不快感を元に企画を批判するのは無意味と考えます。
多くの人々の心の中に隠された排外性、歴史を不問に付そうとする傾向、権威主義などを、人々に無理やり知覚させるという企画意図があるので、人々の怒りを買うのは当たり前でしょう。しかし、それを止めさせてよいわけではない。自身と違う立場からなされるアクティビティを止めさせようとした動きがみられたことが問題だと考えます。
保守・革新問わず、思想を公の場で言い表すことは問題ないが、それを他人が行うことを妨げてはならない。河村たかし・名古屋市長による中止要請は、暴力によって誰かの権利が妨げられている状況を追認するものであり適切ではありません。
また、その際に使われた「多くの日本人の心情を害する」といったような言葉は、国民の思想・心情を決めつけるような発言であり、これまた問題があるといえます。
作品自体の価値は問題ではない
特に注目された2作品、昭和天皇の肖像を扱った「遠近を抱えて」と慰安婦問題に関わる「平和の少女像」について、芸術作品としての評価自体は、議論の対象とすべきではないと考えます。
個々の作品の良し悪しや好き嫌いを問題にすべき局面でも、個人的な政治信条や芸術審美眼を問題にすべき局面でもないでしょう。そういったことと今回の問題とは、切り離して考えるべきです。
補助金撤回の意味
文化庁は、あいちトリエンナーレに対する補助金の交付を撤回した理由として、主催者側の手続きの不備を挙げています。私は、この対応は筋が通っていないと考えます。
そもそも、危険な事態をもたらしたのは一部の過激派なのであって、トリエンナーレ事務局の手続き上の責任を問うのはお門違いです。補助金撤回の判断は、事実上脅迫の加害者側に加担していることになると考えています。
また、文化資源推進活用事業の補助金交付要綱が9月末に書き換えられ、「公益性」に関する条文が付け加えられました。これはつまり、「今後は、補助金の交付をいつでも取り下げる判断ができるように書き換えた」ということでしょう。
最大の問題は、今回の事件を通じて、国だけでなく一部の過激派が「自分の気に入らない企画を中止する」ためのメソッドを手に入れてしまったことだと考えます。実際、川崎市の映画祭「KAWASAKIしんゆり映画祭」でも、慰安婦問題に関する映画の上映が一時中止されるなど、影響は広がっているといえるでしょう。
問題は芸術にとどまらない
こうした、いわゆる「左翼的」な動向に対する圧力は、今に始まったことではありません。昨年には、日本弁護士連合会が出した朝鮮学校への補助金を求める声明をきっかけに、多くの弁護士に大量の懲戒請求が届く事態となりました。
また、日韓関係の研究者たちに対する科学研究費の助成に対して、国会議員が批判するなど、芸術と関係のない分野においても同様な事例が起こっています。
今回は、現代芸術の性質上一般市民を感情的に巻き込むことが容易であり、表現の自由の問題などを隠れ蓑に、国が統制を強める機会になってしまったと考えます。
「あいちトリカエナハーレ2019」と「表現の不自由展・その後」は異なる
「遠近を抱えて」では、天皇の肖像を作品に用い、その作品を焼くというシーンが一部の人々にショックを与えました。しかし、昭和天皇はすでに歴史上の人物であり、また戦後にも、昭和天皇をパロディ化したプラカードを違法ではないとした判例があります。近代法の理念に照らしても問題はないといえます。
それに対し、「在日特権を許さない市民の会」の元会長が「党首」を務める政治団体が催した企画、「あいちトリカエナハーレ」で展示されている作品は、明らかに現在生きている特定の人々に対する中傷を含んでいます。人権侵害に当たるため、「表現の不自由展・その後」とは異なり表現の自由の範囲外であるといえるでしょう。
芸術という特殊なコミュニケーション
そもそも、芸術とは「発信者と傍受者による特殊なコミュニケーション」であると考えます。
芸術においては「本来の受け手」なる者は存在せず、私たちは作品を傍から見ているに過ぎないのです。ある意味で、私たちは(明確な人権侵害を含む場合を除き)芸術を鑑賞して不快感を覚えたとしても、それを「間違っている」と言い立てることは出来ないといえます。
(今井慧)