紙幣の「顔」が変わる。政府は4月9日、紙幣の刷新を発表した。1984年から長きに渡って1万円札の「顔」を務めた福澤諭吉が、その役目を終える。新千円札の肖像に採用された北里柴三郎には慶應義塾と強いつながりがあり、義塾にまつわる肖像は、バトンタッチする形となった。
紙幣の「顔」、どう決まる
各紙幣の肖像の選定にあたっては、財務省・日本銀行・国立印刷局の三者が協議し、最終的には財務大臣が決定する。1984年以降の肖像に関しては、政治家ではなく文化人から選ぶ方針が続いている。
2004年の紙幣刷新の際には、千円札と5千円札の肖像が変更されたが、1万円札は福澤のままに留まった。このため、福澤は40年に渡り1万円札の「顔」を務めることとなった。
慶應義塾と1万円札
突然の新紙幣発表を受け、塾生からは1万円札の刷新を惜しむ声が聞かれた。法学部2年の男子学生は、「新紙幣に関しては無関心を装っている」としつつも、「大学の『顔』である福澤諭吉が紙幣から姿を消すのは、少し寂しい」と語った。
慶應義塾には、福沢が肖像となった1万円札の2号券が保管されている。2号券とは、その名の通り、通し番号(記番号)が2番目の紙幣。1984年と2004年の紙幣刷新に際して、日本銀行から慶應義塾に寄贈された(1号券は日本銀行が保管)。慶應義塾と1万円紙幣の深い関係を表している。
福澤は北里の大恩人
新千円札の「顔」となった北里柴三郎は、慶應義塾と強いつながりをもつ。
北里は、現在の東大医学部を卒業後、内務省衛生局に入局。その後ドイツへ留学し細菌学者コッホのもとで感染症の研究に取り組んだ。破傷風・ジフテリアの血清療法を開発し、大きな業績を上げた。
留学先で恩師の緒方正規(東大医学部)の学説を批判した北里は、帰国後、東大と対立し、不遇の時期を迎えることとなる。そんな北里を救ったのが、福沢であった。当時の北里の上司・長与専斎が、福澤と適塾時代の親友であったことから、北里を福澤に紹介する運びとなった。
北里の苦境を知った福澤は、私財を投じて芝公園に伝染病研究所を設立。福澤の支援のおかげで北里は研究を再開することができた。
福澤の没後、慶大に医学部が新設される際には、北里は福澤の恩義に報いる形で初代学部長に就任し、医学教育に尽力した。
福澤と渋沢、意外なつながり
1万円札を飾る渋沢栄一は、福澤と同じく近代日本の「民」にこだわって活動した人物の一人だ。福澤は、自身が発行する新聞「時事新報」において、渋沢を高く評価する社説を掲載したことがある。
また福澤は、渋沢と共に、商法講習所(現在の一橋大)の設立に深く関わったことでも知られている。商法講習所の設立趣意書「商学校ヲ建ルノ主意」は、福澤が執筆したものだ。
福澤研究センター 都倉武之准教授の話
1万円札の肖像が福澤では無くなることには、良い側面もある。
福澤は1974年に「文化人」として紙幣の肖像に採用され、いわば政府公認の近代の「偉人」ということになってしまった。
その結果、近代日本の歩みを批判的に見る歴史学者の一部が、福澤の政治思想を過度に批判的に捉えるようになり、「脱亜論」が福澤の本質であるというような誤解も広まった。
だが実際の福澤は、明治政府にとっては耳の痛いことをいう「民間」の人間であり、政府寄りの人間では無い。
もう一度福澤を歴史の実態に即して語れるようになるならば、今回の紙幣刷新は望ましいことであると言えるだろう。
(太田直希)