ドイツ北部ハンブルクの高校教師が執筆したノンフィクション本が、同国内で異例のロングセラーを記録している。タイトルは『ドイツのとあるクラスルーム(原題=Ein deutsches Klassenzimmer)』。著者のヤン・カムマンさん(39)は、ハンブルクのギムナジウム(大学進学を目指す学生が通う8年制公立校)で地理と英語を教えている。
教鞭を執るギムナジウムでは、移民・難民の出自を持つ子どもたちが全校生徒の約90%を占める。入学・転入時はドイツ語の知識を一切持たない生徒がほとんどだ。カムマンさんは日本の高校1年に相当する学年のクラスを担任するかたわら、授業や学校生活の共通言語となるドイツ語の補習授業を受け持っている。
「ロシアにファシストが……」 ドイツが残した傷跡を知る
クラスでは毎週月曜日、生徒が各自の出身国についてのニュースを持ち寄り、議論する時間を設けている。生徒に「考えさせる」ために始めた取り組みだったが、回を重ねるごとにカムマンさん自身の世界観が揺らいでいった。
印象的だったというのは、ウクライナの欧州連合(EU)加盟の可能性を報じたロシアの新聞記事だ。ロシア出身の生徒は、「ウクライナが西欧諸国に接近すれば、ファシズムがロシアに再来する恐れがある」と記事を紹介した。ロシアには第二次世界大戦中、ナチス・ドイツ軍に侵攻され、民間人含め2000万人近くの犠牲者を出した歴史がある。
「ドイツが世界に残した傷の深さを見せつけられた。このような報道や考え方に触れながら育ってきた生徒たちが何を考えているのか、分からなくなったんです」
生徒が育った環境を知らずして、彼らを理解することはできない。教師としての距離感を探る中で、一つの壮大な計画を考えついた。自身が担任する生徒28人の出身国14カ国を1年間かけて旅するというものだった。
生徒を知るための旅へ
担任するクラスには、戦災を逃れて一家共々ドイツに移ることを強いられた生徒もいる。その足跡をたどるだけでなく、「右も左も分からない」環境に身を置き、外国人の目線に立ちたいとの思いがあった。
生徒たちは、それぞれが母国についての手書きのガイドブックを作ってくれた。コソボ出身の生徒が作った冊子には、「この国にはチップ文化がない。ウェイターに渡せばサービスがちょっぴり良くなるかも」。子どもならでは、そしてドイツの文化も知るからこその視点だ。
2016年夏から1年間、サバティカル(長期休暇)を取得し、旅は始まった。
最初に訪れたイランは「革命の影響で、混沌としたイメージが強かった」というが、「それもメディアによる切り取りの一つにすぎないと知った」。イランでは、日没前になると人々が一斉に外出する。現地住民と同じようにモスクの前で夕日を眺めながら、イラン出身の生徒が「ピクニックが懐かしい」と話していたのを思い出した。
悪臭漂う「毒の街」 教科書伝えない現実
最も鮮烈な体験をしたのは、ガーナの首都アクラにある「トクシック・シティ(毒の街)」と呼ばれる地区だ。この土地には国内外で迫害に遭っている労働者たちが集まり、先進国から回収された電気製品の廃棄物を分解している。
カムマンさんは、自身が担当する地理の授業で、繊維産業の分業について教えたことがあった。例えば、デニム製品はインドで綿が採取され、モロッコで染色され、最後にガーナで金属ボタンやファスナーが調達される。「トクシック・シティ」では、その最終工程を目の当たりにした。
首都の中心部、大統領府からわずか4キロ。車を降りた瞬間、刺激臭とともに「目が焼けるような痛み」に襲われた。車のタイヤが焼かれているところだった。近くの路上では、野菜を売る子どもの姿もあった。
「先進国が享受している高度な文明は、途上国の犠牲の上に成り立っている。どんな教科書や映像を介するよりも、生々しく感じましたね」
生徒を知るための旅で、いかに自身がドイツ人として恵まれているかを知った。旅を終え、教壇に復帰してからは、「生徒に教え、生徒から学ぶ」意識を強くしたと語る。
「生徒も教師も、人生経験は人それぞれ。生徒しか知らない世界もある。教師という職業を通して、一生学んでいきたい」
カムマンさんは昨年、旅での「学び」をまとめた書籍『ドイツのとあるクラスルーム』を出版。独誌シュピーゲルの月間ベストセラーに選ばれるなど、自身が「想定外」と話すほどの反響があった。
「国が次々と受け入れる移民・難民に対し、大抵のドイツ人はどう関わっていけばいいのか分からず、態度をあいまいにしている。ニュースで報じられる政治的、外交的な側面ではなく、彼らの人間としての一面が伝われば嬉しい」
昨年、カムマンさんが担任するクラスに日本人の生徒が加わった。表紙に「JAPAN」と書かれた生徒自作のガイドブックを携え、今年は初めて日本を訪れる予定だ。
(ハンブルク=広瀬航太郎)