「小学生時代には壁新聞を作り学内に掲示していた」
滝鼻卓雄氏は、中学生の時から本格的に新聞記者を志し始める。当時はガリ版刷りで50部ほどの学級新聞を発行していた。新聞を発行する魅力に気づいたことが最大の契機となった。
「自分が考えていること、自分が発掘した新しい真実を不特定多数の人間に伝えることができる」
新聞制作の醍醐味に熱く燃え始めた時期が中学生時代だったという。高校、大学に進学してからも情熱は冷めることなく、一貫して新聞を作り続けた。
慶大在学中には新聞研究所(現メディア・コミュニケーション研究所)に所属して、マス・コミュニケーションを学ぶと共に、実習で慶應義塾大学新聞を発行することに没頭した。そこで一生の友人たちと出会い、友人を介してジャーナリストの先輩と数多く知り合った。新聞記者、放送局の人間、現場で働いていた先輩から生きたジャーナリズムを学びとった。友人や先輩との出会いは、新聞記者への道を目指す滝鼻氏の背中を力強く後押しした。
「一分野の専門家になる必要はない」
日吉や三田では、法律、政治、経済、語学といったジャーナリストの根幹となる基礎的な学問から、フランス文学に至るまで多様な分野の勉強もした。大学時代の勉強はすぐには役に立たないかもしれないが、仕事をしていく上で助けになる時がくるという。
ただ、特別に勉強漬けの学生時代というわけでもなかった。映画やモダンジャズ鑑賞、登山などにも幅広く精通していた。映画評論を執筆して新聞に掲載することが好きで、フランスのヌーベルバーグやハリウッド映画を観るために、渋谷の映画館などには足繁く通った。
塾員で先輩でもある映画監督の恩地日出夫氏や作家の坂上弘氏とはよくお酒を酌み交わしながら、文化から当時の安保闘争まで多岐に渡る議論に花を咲かせた。こういった時間は滝鼻氏の広範な視野を着実に養っていった。
「自由な時間があることは学生の特権。時間を有効に活用して若いうちに幅広い視野、好奇心を磨くことが重要になる」
社会に出ると、時計の針は一段と速度を上げて刻々と進んでいく。読売新聞に入社してからは、取材や締切に追われる日々を送り、自分の時間は著しく減少した。だが、学生時代に研ぎすました好奇心は、決して錆びつくことはなかった。仕事で道に迷った時に映画、音楽、スポーツなど専門分野以外に打ち込めるものがあれば、再び仕事に戻ったときに壁を乗り越えられることがあるという。
学生時代、とにかく多元的に物事を学んできた。だが、そんな滝鼻氏にもやり残したことがあるようで、後悔の念を述べる。「もっと多くの本を読み、理系の学問にも積極的に触れておくべきだった」
あくなき向上心と、尽きることのない好奇心こそがジャーナリストに必要な素養なのかもしれない。 (大熊一慶)
1939年生まれ。63年慶應大学法学部政治学科を卒業し、読売新聞に入社。論説委員、社会部長、読売新聞グループ本社取締役編集担当、読売新聞東京本社代表取締役社長・編集主幹読売巨人軍取締役オーナー、読売新聞東京本社代表取締役会長・電波・電子メディア担当などを歴任。2009年6月より読売新聞東京本社相談役、読売巨人軍代表取締役オーナー。著書に『新しい法律記事の読み方』(ぎょうせい・共著)、『新・法と新聞』(日本新聞協会・共著)。