「ジュリアナ東京が慶大に近かったのは本当ですか? 当時の様子や慶大生はいたのか、現在その跡地がどうなっているのか調べてください」
ジュリアナ東京(ジュリアナ)。1991年から94年まで存在した、言わずと知れた、バブル時代を象徴するディスコだ。インドアの探偵にはそのような世界はまったく無縁であるが、どうやら田町駅の海側、東京・芝浦に本当にあったようだ。手がかりをつかむため、探偵は当時を知る人に連絡を取った。
「お立ち台の女王」こと荒木師匠
ジュリアナの名物であったのが、通称「お立ち台」と呼ばれる、ダンスホールの両脇に設置された高さ1.2メートル程のステージだ。ボディコン姿の女性が「ジュリ扇」という羽扇子を片手に踊っていた。探偵はまず、熱気に包まれていたジュリアナで「お立ち台の女王」と呼ばれていた荒木久美子さんのもとを訪れた。
荒木さんが「お立ち台の女王」と呼ばれるようになったきっかけはテレビのバラエティ番組出演だ。もともと常連客で、お店のルールに精通していたため、ジュリアナを特集する際に白羽の矢が立った。それが高視聴率だったらしく、最初はナビゲーターのような形で出演していたが、テレビの後押しでだんだんとカリスマ的存在となっていったそうだ。
当時のジュリアナがどのような位置づけであったか。荒木さんは、ジュリアナは実際アフターバブルであると話す。ジュリアナの営業時期(1991年5月~94年8月)は、バブル最盛期より後だ。しかしながらテレビでバブルの映像が流れるとき、多くはジュリアナのものだ。これは見映えとして、ぴっちりしたボディコン姿の女性が踊っている様子のほうが、バブルの派手さをよく示していると考えられるからだ。
バブルがはじけた後も、景気の後退を感じることはあまりなかったそうだ。「みんな楽観的で、本当にバブルがはじけたということを理解していなかった。どこか他人事でいた。そうして知らないうちにお尻に火がついていった」。当時のことを荒木さんはこのように捉える。
ジュリアナの閉店が近くなると、女王が入店を拒否される事態が発生する。当時のジュリアナは、警察の指導が入ったり、お立ち台が撤去されたりして、メディアから批判を受けた。その結果、客足は減少することとなり、その後、リニューアルという形で「クリスタルステージ(光るお立ち台)」が設置された際、荒木さんが見に行こうとすると、入り口で止められたという。出禁について、荒木さんは「自分が感想を言ったら、良くても悪くてもイメージがついてしまう。運営側の人も立場があって仕方なくそうしていた」と振り返る。
慶大生がいたかどうかを尋ねると、「友人にいましたよ」と即答。その人はイケイケ大学生だったそうで、荒木さんは慶大生に対して、チャラいおぼっちゃま像を持っていたという。お話を聞きたかったのだが「電話番号はおろか、名前すら思い出せない」そうだ(残念)。しかし別の有力な関係者を紹介してもらうことができた。