今年で創立1‌6‌0年を迎えた慶應義塾だが、三田の丘に移転したのは1‌8‌7‌1(明治4)年のこと。開塾から13年近く経ったころだ。

そんな歴史ある三田キャンパスには、重要文化財に指定された建築が二つある。南校舎に隣接する「三田演説館」と、キャンパス東側に位置し、現在免震工事中の「慶應義塾図書館旧館」だ。これら二つの建物はなぜ文化財として価値があるのか。慶大文学部非常勤講師で建築史家の和田菜穂子さんに聞いた。

「三田演説館」はその名の通り、演説を行うために設計された建物だ。建てられたのは、三田に移転して間もない1‌8‌7‌5(明治8)年。義塾が今に比べ小規模で、まさしく「塾」だったころだ。当時の日本には、大勢の群衆の前で主張する「スピーチ」をする文化がなかった。福澤諭吉は日本の近代化を図るためにはこの「スピーチ」の普及が必要不可欠だと考え、「演説」という訳語を考え、教えを説いた。

塾生も演説に対して積極的だった。毎週土曜日の夜は、福澤の自宅などで集まり演説の練習を重ねていた。時が経つにつれ、次第に演説をする場所を新たに設ける機運が高まった。そこで福澤が私財を投げ打って造られたのが日本初のスピーチ専用の施設、演説館だ。

まだ「建築」という言葉もなかった時代、福澤らはアメリカから平面図を取り寄せ、手探りで西洋的建築を目指した。そのため建物内部は西洋的な造りとなっているが、建物外壁は、日本の蔵や城壁にみられる「なまこ壁」が全面を覆っている。

やがて、明治政府もソフト面の文化だけでなく、それを受容するハード面、すなわち「建物」も西洋化しようと改革を始める。政府はイギリスからお雇い外国人としてジョサイア・コンドルを日本に招いた。彼は鹿鳴館などを建設する傍ら、東大工学部の前身である工部大学校で教鞭を執った。

曽禰達蔵(そねたつぞう)はコンドルの門下生の一人だ。曽禰は三菱社に入社後、丸の内に煉瓦造りのオフィスビルを建設するなどし、定年を機に独立。中條精一郎とともに曽禰中條建築事務所を開いた。独立後初めて設計したのが旧図書館だった。

旧図書館は義塾創立50周年の記念として、1‌9‌1‌2(明治45)年に建てられた。この頃の義塾では、福澤は既に亡くなり、大学部の設置や一貫教育の樹立で、「塾」から「大学」へと移り変わっていた。演説館が建てられた時代と比べ規模は大きくなり、より強固な組織となっていたのだ。

和田さんは、ゴシック様式で西洋の城のようになった理由を、「図書館が貴重な本を揃えた知的な空間であり、大学のシンボルとなるような場所と位置付けたからでは」と分析する。「曽禰達蔵らは、皆が憧れるような学校を目指したのではないか」

同じ明治期に建てられた二つの重要文化財。しかし、その間の40年で日本と慶應は、大きく変容したことが建物から感じ取れる。

キャンパスに様々な建物が混在する中、これら貴重な建物が静かに佇んでいる。「リアルな建物が語りかけてくれることがたくさんある」と和田さん。あなたも明治期に思いをはせ、建物の「声」に耳を傾けてみよう。

(山本啓太)