今からちょうど20年前、「平成の怪物」と恐れられた高校球児が世間を騒がせた。1998年夏の甲子園大会で、ノーヒットノーランで優勝を決める圧巻の活躍を見せた松坂大輔投手(現中日)だ。
松坂投手の投球に衝撃を受けた球児は多い。同学年の「松坂世代」で、プロ野球では2度の本塁打王に輝いた村田修一選手(現栃木ゴールデンブレーブス)もその一人だった。
野球の聖地・甲子園との出会い
甲子園にまつわる最初の記憶は、小学生の頃に母親に球場へ連れて行ってもらったことだ。とても暑く、かち割り氷を食べたこと、また球場が広く感じたことを今でもよく覚えているという。
甲子園をねらえる高校に行きたいとの思いがあった。母親に「勉強もしっかりしてほしい」と言われていたことから、福岡の進学校である東福岡高(福岡)に進学。文武両道をかなえるにはうってつけの環境だった。
当時の東福岡は、堅守速攻が特徴だった。村田選手は3番・投手でチームをけん引。のちの大打者も高校時代は最速144キロの速球を投げる全国屈指のエースだった。
甲子園大会に初めて出場したのは、3年春のことだ。1年の夏に県大会決勝でサヨナラ負けを喫し、「準優勝では意味がない」という悔しさがあった。監督が厳しかったこともあり、練習を乗り切ることでチームがまとまっていた。
初めて足を踏み入れた甲子園球場は、「芝生がきれいでホームランもなかなか打てないくらい広い球場だと感じた。マウンドから見るとキャッチャーとバックネットの観客が同じ高さに見えるのが不思議だった」と話す。
甲子園で味わった挫折 「怪物」の衝撃
春の選抜大会では、3回戦で松坂投手擁する横浜(神奈川)と当たった。村田選手は横浜打線を九回3失点に抑えるも、松坂投手は東福岡を完封。チームが敗戦しただけでなく、自身は松坂投手の前に4打数ノーヒット。打者として、松坂投手の球の速さと変化球の曲がりに驚かされた。
「大輔は投手として完成されていた」。一番になりたい、誰にも負けたくないという気持ちで野球を続けてきたが、初めて打ちのめされた気分だった。
松坂投手との対戦をきっかけに、投手として自分は力が足りないと思い始めた。バッティングのほうが好きだったこともあり「大輔に投げ勝つよりは打ち勝つことに目標が変わっていった」。
チーム事情により投手を続けながら、夏の甲子園大会でリベンジを果たそうとしていた。最後の夏は、正捕手でキャプテンの大野隆治選手(元ソフトバンク)がけがで出場もままならなかった。三年間ともに戦ってきた仲間を甲子園に何とか連れて行ってあげたいという思いがモチベーションになった。
そして、エースとして東福岡を春夏連続の甲子園大会出場に導いた。
(次ページ=日本を代表するバッターが生まれるまで 松坂選手への思い)