その日、グラウンドの気温は38度に達していた。
1998年8月16日、第80回夏の甲子園大会2回戦の宇部商(山口)— 豊田大谷(東愛知)戦。阪神甲子園球場は4万9000人の観客で埋めつくされた。この試合の後に、当時より注目を浴びていた横浜(東神奈川)・松坂大輔投手(現中日)と鹿児島実(鹿児島)・杉内俊哉投手(現巨人)の投手戦が予定されていたためだ。
試合が延長戦に突入し、主審の林清一さんは暑さのあまり頭がくらくらするのを感じていた。
『これはちょっとまずいな』
選手は回の表、裏のどちらかでベンチに下がるが、審判は立ちっ放し。マスクの中に熱が充満し、汗が目に入る。試合時間は3時間50分を超えていた。
2–2で迎えた延長十五回裏、守る宇部商は無死満塁というこの日最大のピンチを迎える。炎天下で懸命に頭を働かせていたのは、マウンドに立つ藤田修平投手だけではなかった。
「選手は緊張すると予想外のプレーをすることがある。たいていの場合、それはランナーが三塁にいる場面で起きるんです」。タイムリーやスクイズだけでなく、死球押し出し、パスボール、挟殺、ホームスチール——。主審としてあらゆる可能性を頭に入れ、目の前の試合に集中した。
ボールカウントは1ボール2ストライク。投球動作に入った藤田投手は、ここで再び捕手のサインをのぞき込むように腰をかがめた。左足はプレートにのったまま。それは、林さんが唯一想定していなかった反則行為だった。
「頭の中に、ボークを『取れ』という自分と『取るな』という自分がいた」
コンマ数秒遅れて、反射的に手が上がっていた。試合は、甲子園大会史上初の「サヨナラボーク」で決着した。
球場は奇妙なほどに静まり返っていた。選手が整列を始めると一転、騒然となった。林さんの胸中も、それに呼応するようにざわつき始めていた。
「おい、ボークで間違いないよな」
急に不安になり、隣に整列した後輩の審判員に尋ねた。返ってきた言葉は、「すみません、分かりませんでした」。
『ああ、これで自分の審判人生、終わったな』
豊田大谷の校歌は全く耳に入ってこなかった。
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