現在、日本サッカー協会名誉会長、そして日本サッカーミュージアム館長を務める塾員、大仁邦彌さん(73)。Jリーグ開幕以前の日本サッカーを知る大仁さんに、Jリーグそして日本サッカーについて話を聞いた。
大仁さんは1964年慶大文学部に入学。体育会ソッカー部に6年間在籍した後、三菱重工に入社し、同サッカー部(浦和レッズの前身)でプレー。日本代表にも選出された。現役時代のポジションは主にディフェンダーだった。
Jリーグ開幕以前、日本には、アマチュアの全国リーグであるJSL(日本サッカーリーグ)が65年に開幕していた。64年の東京オリンピックでサッカー日本代表コーチを務めたデットマール・クラマー氏の提言によって創設された。大仁さんも当時はアマチュアの選手として、仕事とサッカーの二足の草鞋を履く形でプレーをしていた。日本サッカーは68年のメキシコ大会で銅メダルを獲得して以降、五輪に28年間出場出来ないなど、低迷期にあった。
88年、日本はW杯開催に名乗りを上げる。国際サッカー連盟(FIFA)会長の、「21世紀最初のW杯はアジアで」という宣言を受けてのことだ。だが当時、日本はW杯出場を果たしていなかった。同じ時期、JSLでは日本サッカーの強化と活性化を目的に、プロ化の議論が起こっていた。当時の熱気はとてつもなかったと大仁さんは語る。果たしてJリーグが開幕すると、選手たちは、高いモチベーションでプレーできるようになった。Jリーグは爆発的な人気を博し、人気スポーツになっていった。
96年には2002年W杯の日韓共催が決定。Jリーグにより日本代表もレベルアップし、97年のアジア予選を突破、日本は98年のフランスW杯に初出場を果たす。
大仁さんは06年に日本サッカー協会副会長に就任し、12年からは第13代会長を務めた。日本サッカー協会の組織強化、女子サッカーやフットサルの活性化などに着手。JリーグとはACL(アジアチャンピオンズリーグ)サポートプロジェクトを立ち上げた。日本勢がACLで勝ち進むということは、日本サッカーのレベルアップを意味する。そのために日本サッカー協会は様々な支援をしたそうだ。
今後大仁さんは、Jリーグがより地域に根差していくことを期待している。「海外では地元のチームを家族代々応援しています。こういった文化をJリーグでも醸成したい」と語った。しかし、「そのためには、まだサッカーの質を上げていかなければならない」とも話す。
さらなる目標として、大仁さんは50年までに日本でW杯を再び開催し、優勝を果たすということを掲げ、それを達成するためには、常にグループステージを突破する力をつけなければならないとも話した。
四半世紀の歴史をもつJリーグの、今後のいっそうの発展を期待していきたい。
(金森悠馬)
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