―どのような経緯で塾新は設立されたのですか?
我々の世代、ベビーブーム世代は本当に子どもの数が多くて、教育の質の低下が叫ばれていたんです。異常に競争が激しい受験を突破して大学に入学しても、期待したほどの授業は受けられない。10年も使っているノートを授業でただ読んでいるだけという教授もいて、私も本当に落胆しました。そういうのが大学改革の運動につながって行くんですが。
全共闘運動も激しくて、学校が封鎖されることもしばしば。「この状態は何かおかしい」。そう思った9人が集まったんです。
当時の学生新聞は全共闘のセクトに乗っ取られているものばかりで、情報が枯渇していたんですね。だから我々がやらなければならないのは政治イデオロギーに偏らない、情報が正確な学生新聞をつくることだと。新聞を作りたくて集まったわけではなかったので、後に新聞づくりのノウハウなどには苦労したのですが。
―塾生新聞が創刊されるまで紆余曲折が多かったと聞いたのですが?
お金も、新聞づくりの経験者もいないので、ないものばかり。あったのは心意気と情熱だけ。とりあえず、必要な資金、備品、技術、態勢を求めて奔走に明け暮れました。
お金も集まらない中、現役の新聞社OBが編集技術を指導してくれたり、傷物の備品を寄付してくれたOBもいらっしゃって、本当に助かりました。とりあえず1号出せば、後はなんとかなるという勢いだけで創刊号を出しました。
―塾新を辞めたいと思ったことはありますか?
ええ、何度も(笑)。毎日、毎日が、新たな課題、悩み、苦しみ、落胆の連続でしたから。周囲からは「どうせ3号で終わるだろう」などと冷ややかに見られていました。
新聞は財政的に軌道に乗せるのも大変な事業ですが、世の中の時流や塾生のニーズを捉え、代表的な意見を大切にしながら、自分たちで考えたあるべき方向を打ち出すのに苦心しました。経験が圧倒的に不足していた。とにかく若かったから。
―40年も続くと思っていましたか?
正直思ってなかった。当時は正義感に駆られて本当に無我夢中だったのですが、イデオロギーの対立も激しく、身の危険を感じたことも何度かあります。知らないうちに尾行されたり。火をつけられるんじゃないかと、部室の外に積んであった新聞を中に入れたなんてこともありました。
―今後の塾新はどのようにあるべきでしょう?
我々が当時目指したのは「読まなければ学生生活ができない」新聞づくり。有料に値する情報と自負したから、新聞も1部10円で売った。
今は創刊時とは違う時代でしょうが、塾生をリードするような新聞であってほしい。
引きずり込まれながら始めた新聞制作。でも真剣に取り組んだからこそ、得たものも大きかった。塾新には「真剣に取り組み、自分たちの頭で考えた結論で進む新聞作りの場」を継承してほしい。