熊本での震災の被害として、倒壊した家屋、崩れた山肌とともに、1、2列ほどの石の支えで辛うじて櫓を支えている熊本城の石垣の映像を頭に浮かべる人も多いだろう。我々は最初の取材地としてここに足を運んだ。

熊本城が受けた傷は深かった。熊本城に到着して目を向けると、足場がかかった櫓や立入禁止の柵が「普通ではない」ことを示していた。想像以上に多くの場所で崩れ落ちていた石垣、いっぺんに倒れた塀、石材で塞がり通行できない門、瓦の落ちた天守。あまりに無残な光景に言葉を失った。

震災前から熊本城のガイドをしている人は「修復があとどれくらいかかるのかもまだ分からない」と言った。これだけの被害状況の中で、道路など必要性の高い箇所から安全を確保し、順番に修復を進めているのだという。地震のエネルギーの大きさを改めて実感した。

歩いているとあらゆるスペースに大きな石が整然と並べられている様子が見受けられた。崩れた石垣の石材に番号をつけて記録し、修復の際に震災前の写真や図面をもとに元あった場所に戻すためだという。しかし、手つかずの場所も多く、気の遠くなる作業となることが感じられた。

熊本城は、予想よりも多くの観光客で賑わいを見せていた。取材時に立ち入れたのは天守の外縁部である二の丸広場と加藤神社周辺であった。流れるように熊本城の話をしていたあるガイドの人は「中に入れればもっと話ができるのに。覚えていたことも忘れちゃいそうだなあ」と言った。その言葉には、震災による変化を目にしてきた熊本城への思いがにじんでいた。

今熊本城を訪れる人には、震災前に目にした熊本城の現状を見に来るリピーターが多いそうだ。現在の公開箇所は無料で入れる一方で、行政側からの補助は無期限ではない。天守内部を公開し入場料収入を得られれば、復旧工事も進められる。

2019年には大天守に入れるようにしたい、という。熊本に住む人々、熊本城でガイドをする人々、復興に携わる人々、遠くから熊本を見守る人々。熊本城の内部公開は、皆にとっての希望であるだろう。その日が早く来ることを願わずにはいられない。

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2日目、この地震で特に被害の大きかった益城町を訪れた。熊本市街からバスで向かったが、その町に入っていくにつれ「被災地」としての益城町をこの身で感じた。車窓からはあちこちに空き地が見え、バスの揺れも大きくなった。

益城町役場から町を案内してもらう中で、この町での生活に結びついている中心道路を歩いた。うねったりゆがんだりしている道には、地震の痕が確かに刻まれていた。案内してくださった大沼さんはすいすいと進んでいったが、慣れない私たちにとっては絶えず注意していないと足をとられてしまいそうな道であった。

解体中の建物、傾いた電柱、建造物の残っていない寺、屋根から下が潰された神社、墓石が崩れ地面に転がった墓地。こんなことが本当に、と思うようなことを目の当たりにした。このすべての光景が、今でも目に焼き付いて離れない。

これまでの生活の中で見てきたもの、使っていたもの、そこに身を置いて生活していたものが、この災害で一変したのだ。自分の周囲で変わることなく存在すると思われるものが、ある時一度に失われる。あまりにも想像の難しいことであり、だからこそ、遠いものだと思ってしまう。今回の取材でこの目で見て、その場所を歩いたことで、「日常が失われる」という残酷な現実を突き付けられた。

あの二度の大きな揺れののち、暮らしていた場所や見慣れていた風景の変わり果てた姿を目にした瞬間、住民の方々はどんな気持ちになっただろう。どんなに心を痛めただろう。それでも、暮らしていかなければならないという現実を受け止めた時、どんな未来を描けただろう。今回訪れたどの場所でも、心の内に「痛み」を抱えながら、何か行動しようと一歩ずつ強く前へ進んでいこうとする人たちがいた。

私たちは「痛み」を直接感じることはできないが、それを共有しようとすることはできる。塾生新聞の記者として自分の見たもの、感じた思いを形にし、伝えることが、自分のすべきことだと思った。

また、熊本に行きたい。
(青木理佳)