ある時は俳優として、ある時は気象予報士として、またある時はクイズ番組の回答者として長年お茶の間に親しまれてきた塾員がいる。新年度最初の塾員インタビューに登場するのは、石原良純さんだ。幼稚舎から計16年間慶應に在籍した石原氏に話を聞いた。
(小宮山裕子)
石原さんが新入生に伝えたいのは「時間を無駄にするな」そして、「時間を無駄にしろ」ということ。
「新入生は大学に入ったからには時間を無駄にしないことばかりを考えるかもしれない。しかし、それでは自分の範疇でしか生きられない。苦手な人と話す。興味を持てないことも学ぶ。停滞かのように感じる無駄な時間こそが、自分の世界を広げるチャンスになるだろう」と自身の経験を基に話してくれた。
石原さん自身も学生時代には無駄の大切さに気付いていなかったそうだ。一般教養科目の魅力に気づかず、好成績がとりやすい、いわゆる「楽単」を履修。2年生以上にとっては身近に感じるエピソードだが、きちんと聞いていれば興味深い講義もあっただろうに、と後悔。真面目に履修していた講義は印象深く、未だに内容を覚えているそうだ。
「学生生活が始まってみると楽しいことばかりではないだろう。だが、大学に限らず、つまらないと感じることこそ楽しもう」とアドバイス。「なにごとも積極的に取り組むだけで感じ方が変わるはず。また、幅広い友人を作ることは大切。仲のいい親友と出会うのも大切だが、ライバルとなる存在も重要。秘訣としては、毛色の違う人も含め、様々なタイプの人と付き合ってみるのがいい。自分と異なるタイプであっても敬遠せず、積極的に交友関係を広げていこう」。
「大学生は様々なことが出来る時間だからこそ、時間を大切に過ごしてほしい」と石原さん。新学期の今、大学での過ごし方をもう一度、見つめ直すのもいいだろう。
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―慶大の思い出を教えてください。
正直なところ、昔のことであまり覚えてはいません。私は慶應義塾高等学校からの内部進学で、学部は自分の成績で行けるところを選びました。経済学部で金融論のゼミに所属していたけれど、学びたい分野だったからというよりは、親しい先輩に誘われたのがきっかけでした。今のように就職活動に合わせてゼミを選ぶといった発想は、当時はあまりありませんでした。ゼミでは銀行などに就職する人が多かったが、私は漠然と商社を目指していました。
―一般就職する予定だった石原さんが、芸能界に進むきっかけは何ですか。
デビューは本当に偶然でした。昭和の大スターである叔父の石原裕次郎が、大学生の頃に倒れて入院した。お見舞いに行くと、連日ワイドショーが取材に来ていて、石原裕次郎に大学生の甥がいる、ということが話題になり、映画出演の話をもらいました。今の学生は自分の人生を切り開こう、という思いが強いかもしれませんが、私の偶然のデビューのように、人生何が起こるかわからないものです。
―偶然飛び込んだ芸能界、仕事をするうえで心がけてきたことはありますか。
芸能界に限ったことではありませんが“真っ当に生きる”ということ。真っ当に生きる、という言葉は辛気臭く感じるかもしれませんが、普段から、礼儀や行儀をきちんとすることが大切だと思います。そして、“天知る、地知る、我知る”です。ずるいことをすれば、他人にはばれなくとも“我知る”。意識の問題ですが、案外大きなことです。
あとはツキを呼ぶことですね。運任せのように聞こえますが、今できることを精いっぱいやるしかないということ。真っ当に生きることとつながっています。芸能界は華やかな世界のように見えるけれど、実はとても常識的なところなのですよ。
―慶大でやり残したことはありますか。
過去には戻れない以上、後悔するのが好きではないのですが、例えば在学中に完成した三田キャンパスの図書館にほとんど行かなかったことですね。もったいないことをしたと思います(笑)
―卒業後、慶應との関わりはありますか。
所属する125年三田会が卒業30周年だった時、日吉キャンパスで行われた「連合三田会」の手伝いをしに行きました。久しぶりのキャンパスに懐かしさを感じましたが、校舎が大幅に建て替えられていて、時の流れを実感しました。
【石原良純さん プロフィール】
石原良純(いしはら・よしずみ)
1962年神奈川県逗子生まれ。1984年松竹富士映画「凶弾」で俳優デビュー。その後、舞台、映画、テレビドラマなどに多数出演。湘南の空と海を見て育ったことから気象に興味をもち、気象予報士試験へ挑戦。1997年、見事合格。日本の四季、気象だけではなく、地球の自然環境問題にも力を入れている。官公庁・地方自治体・学校教育の講演会、シンポジウム多数。