影絵師 藤城清治 氏
影絵師 藤城清治 氏

光と影が織りなす影絵の世界。幾重にも重ねられたフィルターを透過する光が、繊細に切り抜かれた影に引きたてられる。藤城清治氏は、60年以上にわたり、幻想的な影絵の世界を創り上げてきた。

普通部から義塾に入塾。授業中の楽しみは、先生の似顔絵をノートの端に描くことだったという。見つからないように、素早く特徴をとらえて描く。「全ての基礎となるデッサン力はこれで自然に身に付いた」と笑う。

その後、経済学部予科に進み、人形劇に出会う。きっかけは、児童文化研究会(児研)による予科祭での公演。「動く絵画」のような人形劇に魅せられ、その場で入会した。

入学した翌年、太平洋戦争が勃発。勤労動員に駆り出された。しかし、「戦争のおかげで逆に人形劇をやる時間が増えたな」と振り返る。勤労動員中は慰問人形劇班を結成し、農村や工場を回った。平時は子ども向けの人形劇だが、村人や女子工員の前で上演すると、たいへん評判が良かったという。「泣いて感動してくれる人もいてね。戦時下で人を勇気づけることができた経験は私の原点」。

海軍に志願し、九十九里浜に向かったときも人形は肌身離さず持っていた。「よく人形劇なんてできましたね、と言われるけど、覚悟はできてたからね」。生きるか死ぬかの極限状態だからこそ、精一杯打ち込めたのだろう。
戦後、大学に戻り、慶大講師で、人形劇専門家の小沢愛圀氏を知る。さっそく児研の仲間と小沢氏の自宅を訪れた。あるとき、小沢氏に影絵を勧められる。「人形劇の起源は影絵。ぜひ影絵をやりたまえ」。ふとしたきっかけから始めた影絵だったが、伝統的な影絵とは一味違ったモダンな影絵を目指し、卒業後も仕事の合間を縫って続けた。




勤めた映画会社を介し、「暮らしの手帖」を創刊した花森安治氏と知り合ったことがひとつの転機となった。花森氏に頼まれ、「暮らしの手帖」表紙に影絵の連載を始めて以降、独自の技術に工夫を重ね、作り上げた作品は数千点に及ぶ。

「やりたいことを最も自由にやれたのは学生時代。特に、慶應は新しさを受け入れる自由な雰囲気がある」。続けて、「(学んだこととは)違う道に進んだが、慶應での経験が、私に幅の広さを与えてくれた。塾生のみなさんも慶應を誇りに思って更に素晴らしいものにしていってほしい」。最後に塾生に向けた言葉からは藤城氏が塾生時代を大切にする思いがうかがえた。

影絵は鋭い線の美しさが魅力のひとつだが、藤城氏の作品には優しさや温かさが感じられる。学生時代から、85歳に至る現在まで自分のやりたいことを夢中で追求しながらも、穏やかな笑みを絶やさぬ藤城氏自身の人柄ゆえかもしれない。

(西原舞)