「経済」「自由」「演説」――普段私たちはこのような言葉を、昔からあった言葉であるかのように当たり前に使っている。しかし、これらの言葉は幕末以降、明治の時代となってから新たに生み出された、比較的新しい言葉だということはご存知だろうか。

これらの言葉や、ほかにも私たちが何気なく使用する言葉の中には、「和製漢語」というくくり方をされるものがある。
「和製漢語」は、明治の急激な文明化の中で、主に西洋の新しい物事や概念などを表すために生み出された。漢字を組み合わせることで次々と新しい言葉を作ることができる日本語の造語力の高さが存分に生かされていた。
それらを生み出していた人々は主にその時代の文化人らが中心であった。その活動に熱心に取り組んだ一人が、福澤諭吉である。

福澤はどのような考えや手法で新しく言葉を作り続けたのか。慶應義塾福澤研究センター所員の山内慶太氏に話を聞いた。
まず前提として福澤は、常日頃から「平易にして読み易き」文章を、分かりやすい言葉で書くということに気を付けていた。これは福澤の師である緒方洪庵の「難しき字を弄ぶなかれ」という精神を受け継いでいると言える。師の言葉が、彼に大きな影響を与えたのである。

福澤自身には固く格式ばった漢語を使おうという意識はなかった。漢文の文体の中で漢語を使うと、漢文に慣れていない人々にとって非常に読みにくい文章になると考えていたのだ。俗文の中に漢語を挟むという方法がよいという考えを持っていた。また、福澤はあまり難しい文章に慣れていない彼の子どもや夫人に、俗文の中に漢語を挟んだ文章を読んでもらい、分かりにくいと言われた部分を改めることもあった。

和製漢語の作り方には様々な手法を用いている。中国の辞典から当時の日本では利用されていなかった漢字、例えば「汽」という文字を見つけ出してきて「汽車」や「汽船」などの言葉として利用していった。また、既存の漢字を組み合わせて言葉を作るという方法もある。現在では一般的なものであるが当時は新しい概念であった「コピーライト」を表すのに、「出版の特権」を縮めて「版権」とした。

福澤が作成した言葉は、福澤自身の著作を通じて、多くの人々に広まっていった。一方で、「ポストオフィス」という概念を表すために作った「飛脚場」などのように浸透まではしなかった言葉もある。これらの言葉については福澤が晩年に、俗な言葉を用い過ぎたと回顧したという逸話が残っている。それほど福澤は分かりやすさを求めていたということが伺える。

福澤の尽力により、多かれ少なかれ明治期の文明化の一端は彼が作った言葉が担っていたと言っても過言ではないと思える。

福澤は和製漢語を含め、新しい概念を広める際に、たとえ当時は馴染みが薄かったとしても、後々には多くの人々に受け入れられるであろうことを見越していた。その考えは見事に的中し、彼の和製漢語は現代の日本語にとって欠かすことのできない存在にまでなった。その功績や先見の明は、偉大なものであると言えるだろう。
(大藤直樹)


【特集】今、見つめる「ことば」