我々は何の疑問もなく他者の笑う姿を目にし、また自らの口角をあげる。「笑う」とは何か。人間は笑うことで他者に何をもたらすのか。慶大文学部で感情社会学を研究している岡原正幸氏に話を聞いた。
笑うことは意図せず本能的に生み出されるのではないという。人間は笑うことを社会のなかで教えられ学んでいく。そしてその時々に、その場で求められる表現に適合した笑いを使い分けるようになるのだ。
第一に笑顔は、相手に「自分は敵ではない」というシグナルを送る。初対面の人同士が居合わせても、微笑むことで攻撃性が否定され、親密性やシンパシーが強められる。その後の関係も良好になりやすい。
また人間は照れとして笑顔を表出することもある。例えば、失敗が予想されない場面で失敗したとき、自分と他者の間の「どうしよう?」という一瞬の空白を埋め修復する働きを持つ。予想された展開からの逸脱によって生じた秩序の乱れを笑顔が元に戻すのである。
さらに、人間は常に笑いを探求し娯楽やエンターテインメントに行きつく。コメディ映画などを観て思う存分笑い、自分の感情を表に出すことで心地良さを感じる。
現代の笑いはどこへ行く?
しかし、現代のエンターテインメントにおける笑いについて、岡原氏は「深みがない」と指摘する。今は誰もが笑えるような質の低く薄い笑いばかりで、それらは作り笑いに近いものしか生み出さないという。ビートたけしやそのまんま東などが活躍した1980年代漫才ブームの頃は、「とんでもない笑い」が人気を博した。当時は大学格差や障害者、政治的内容もネタにした「毒のある笑い」がありそれらを世間も受容していた。
しかし現在は、メディアの公的規制もあり、誰も傷つかないよう凝られた、「平等な笑い」しか産出されていないのである。この結果、笑いの内容は多様性に欠け、全体的な感情の幅も狭くなってしまう。
人間は他者と生活していく上で無意識のうちに相手を不愉快にしてしまうことがある。その中で肝心なのは、他者を傷つけてしまうおそれのある笑いを披露した後に、次の一言をどう工夫するかだ。「その後被害者も頷き、一緒に笑えるようにどう修復するか。また被害者が傷ついたことを率直に訴えられる雰囲気を作れるかにかかっている」という。
他者と共生していくなかで問題が生じるのは必然だ。それにも関わらず、その問題の解決策を練るのではなく、始めから問題を起こさないように奮闘してしまうのが日本人の傾向とも言えるだろう。
深みのある笑いを得るには、それに値する刺激が不可欠であり、他者を傷つけるリスクも伴う。しかしながら、毒のある笑いは人間の感情の幅を増幅させ、社会をより健全にするのである。
(三谷美央)