慶應義塾の起源は、1858年に福澤諭吉が当時の江戸築地鉄砲洲にある中津藩奥平家の中屋敷に開いた蘭学塾にあるとされている。今年2008年が、義塾創立150年とされるのはそのためだ。それでは、我々が学ぶ「大学としての慶應義塾」の起源はどこにあるのか。慶應に大学部が設置されたのは、福澤が蘭学塾を開いてから30年以上後のことになる。

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1960年に発行された『慶應義塾百年史中巻』は、以下のようなくだりではじまる。
「明治二十三年(一八九〇)一月、わが慶応義塾は文学、理財、法律の三科より成る大学部を開設した。実にわが国における最初の私立総合大学である。」
大学部開設に先駆けた明治17年ころから学科の改正をはじめ、英書によって専門的な内容の深化を図っていた。
明治19年になると、まず3月に帝国大学令が公布された。これにより東京大学は法科・文科・理科・医科・工科の5つの分科大学に分けられて、帝国大学として発足することになった。このことが義塾における大学部設置に強く影響した可能性は高い。事実『百年史』によれば、大学部設置を本格的に計画し始めたのはこの年の9月である。
大学部設置という大きな計画の前に、開設のための資金という重大な問題が生じた。そこで明治22年1月、福澤や時の総長小泉信吉らは、資金募集の趣意書と払込方法を発表し、「慶應義塾資本金」の名で募金が行われた。趣意書では大学部設置に当たって、「文学」「法学」「商学」の三科を設けるとしていた。当時の宮内省をはじめ各地の富豪らから多くの資金を集め、翌23年末までに払込高で7万9407円を集めたという(『慶應義塾豆百科ナンバー47』より)。
明治22年の11月に開かれた評議員会で、大学の名称を「慶應義塾大学部」とすることが決定され、さらに趣意書では「法学」「商学」としていたのを、それぞれ法律科と理財科として設置することを決めた。また同時期に生徒募集が広告された。明治22年11月22日の『時事新報』に掲載された広告によれば、受験料は1円、入社金3円、授業料年額30円とされていて、入試科目は地理・歴史・物理、化学・数学=算術代数(二次方程式まで)と平面幾何・和文英訳・英会話・漢書訓読・作文であった。
教師として、英米をはじめとする外国から外人教師が積極的に招聘された。それまでも義塾は積極的に外人教師を採用して英語教育の拡充に努めたようだが、大学部設置に際しては語学のみならず、より専門的な学者としての外人教師を必要とした。結果、各学科の主任教師として文学科にリスカム、理財科にドロッパーズ、法律科にウィグモアが招かれた。リスカムはブラウン大学出身で、残る2人はハーバード大学出身だった。
明治23年1月に入学試験が行われ、文学科20名、理財科30名、法律科9名の計59名が合格し、1月27日に大学部としてはじめての始業式が挙行された。ここに慶應義塾として、また日本の私学として初めての「総合大学」が誕生したのである。
(KEIO150おわり)

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この企画は福冨隼太郎、大木将裕、菅野香保里が担当しました。