戦後70年という節目を迎え、塾生新聞では慶應から見た戦争の記憶を連載形式でたどっている。私たちの先輩は何を見ていたのか。戦争とは何なのか。『筑波海軍航空隊』で戦争を目の当たりにしたひとりの塾員、柳井和臣さんに聞いた。
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一人の塾生の何気ない日常を、戦争が大きく変えてしまった。
1939年、山口県に暮らしていた柳井和臣さんは慶應で応援団長をしていた兄に憧れ、法学部政治学科に入学した。体育会空手部で部活動に励むとともに、級友と野球部慶早戦の応援をしたり、渋谷で遊んだりと今の塾生と変わらない大学生活を楽しんでいた。
穏やかな大学生活は突然に、加速する戦争によって終りを告げられる。1943年10月、柳井さんが21歳の時に学徒出陣が行われ、約10万人の学生が徴兵された。戦争に行くことに抵抗はなかった。「学生でない同世代の若者たちを戦争に向かわせ、自分たちは延期させてもらっていたという恩恵を感じていた」
徴兵検査の後、一番人気があったとされる海軍の航空部隊に配属が決まった。その後、訓練が厳しく「地獄の筑波」と呼ばれていた筑波海軍航空隊に移った。
その間にも戦況はますます厳しくなっていく。1944年10月20日にはレイテ島で日本軍として初の特攻が行われた。筑波の搭乗員も自分たちもいつかは、とうすうす感じていた。
1945年2月20日、特攻を希望するか否かの志願書が渡された。「『希望する』に全員が丸を付けたのは上からの強制ではなく、国のためなら、という自発的な意識があったからだ。生への未練や、死そのものへの恐怖は何度も心の中で葛藤し克服した」。「それから何度も繰り返された特攻訓練で教官に言われた『ぶつかるまで目を閉じるな』という言葉が残っている」。ぶつかる直前に、恐怖から目を閉じて狙ったところに体当たりの特攻ができない戦闘機が多かったのだ。
同年5月14日、九州に接近中の米機動部隊への攻撃のため、神風特攻攻撃隊第六筑波隊の一員として出撃した。柳井さんの戦闘機は、敵を発見できず帰還した。その攻撃では、17機の戦闘機が出撃し、14機が未帰還となった。そのうちの一機はアメリカのエンタープライズに特攻し、大破させた。
特攻をせずに8月15日の終戦を迎えた。生きて戦争を終えたことに、後ろめたさよりも安堵の気持ちの方が大きかった。16日には正式に特攻作戦が中止され、20日には隊員たちに無期休暇が与えられた。使われずに残ったゼロ戦で岩国基地まで飛び、地元山口に帰ることを許された。途中で上空から見た、原爆で荒廃した広島の風景が今でも目に焼き付いている。
終戦後は、戦争や特攻そのものに対する嫌悪感が強くなり、長い間柳井さんも、ほかの生き残った仲間も、戦争に関しては口を閉ざしてきた。
しかし戦後70年を迎え、その間平和国家として繁栄してきた日本が今後もこれを維持存続させるために、自分にもできることがあるのではないか、と考え始めた。ちょうどその頃、「永遠のゼロ」の取材の話が来た。反響は大きかった。「筑波海軍航空隊の慰霊祭や記念碑などに興味を持ってくれる人が増えてきて、うれしく思う」
今の塾生に「人生というのは選択であり、一度決めたことには集中して取り組むべきだ。慶應生としての誇りを忘れないでほしい」と語った。常にひとつの答えを強いられる学徒兵を過ごした柳井さんの言葉は重い。未来の平和を維持するための選択を、これからの塾生たちは任されている。
(中山直樹)
【写真提供】
『筑波海軍航空隊』©2015プロジェクト茨城
8月1日よりヒューマントラストシネマ有楽町ほかにて公開