未来で待つのは何者か
「ねえ、きみ、そこがきみの間違っているところさ。世間のものはみんな、そこで間違うのだ。われわれはいつも現在の瞬間からぬけだしている」
これはH・G・ウェルズの中編小説『タイム・マシン』の中で、タイム・トラヴェラーが友人に放った言葉だ。
彼は自身が発明したタイム・マシンに乗って見てきた「未来の世界」の有様を語って聞かせる。遠い未来では、人類は知能的にも肉体的にも退化して、まるで子供のようになっていた。その世界には争いも疫病も、衣食住の不足もない。人類はまるで楽園のように平和で穏やかな社会を手に入れたのだった。
しかし未来の世界で生活していくうちに彼は、人類にはもう一つ、別の進化の道をたどった種がいることを知る。楽園を与えられたことへの大きすぎる代償に気づくのだが、これ以上は物語の核心に触れてしまうので書かないでおこう。
十年前のことを思い出してみる。そして、当時思い描いていた「十年後の自分」と「現在の自分」には、どのくらいの違いがあるのかを考える。個人差はあるだろうが、全く想像通りの自分になったという人はいないのではないだろうか。空想でも現実でも流れた時間は同じなのに、どうしてこうも違うのか。
作品の発表は1895年で、資本主義が台頭してきた盛りの時代である。「もし資本家と労働者の階級差が開き続けたら、最終的には何が起こるのだろう」
本作は、経済格差が拡大する様を目の当たりにした著者によって描かれた未来想像図とも捉えられる。そこには一つの価値観にのみ流されている世の中を「このままでは駄目なのではないか」と見る筆者の批判精神も隠されている。
時間は資産、職業、人間関係などといった要素に関係なく、平等に与えられる資源だ。これをどう使うかによって一時間後、一日後、一年後の自分が大きく変化する。
タイム・マシンに乗って未来の自分に会いに行ったとき、そこにいるのは誰なのか。想像通りの自分か、それ以上か、それ以下か。マシンが存在しない以上、全ては想像するしかなく、時間の使い方にも正解はない。
変化の激しい現代社会では、将来に対する不安も多い。たとえば就職活動で、学歴だけでは必ずしも評価されない。資格を取ったり留学したりと選択の幅はどこまでも広がるが、学生でいられる時間は限られている。
大学生には、自由な時間が多い。学問にしても遊びにしても、自分の意思で動くことができる貴重な時期だ。
過去の自分に失望されず、未来の自分に胸を張れる生き方をしているだろうか。他人は答えを持っていない。
(玉谷大知)