5月25日 山の手空襲
戦後70年という節目を迎え、塾生新聞では慶應から見た戦争の記憶を連載形式でたどっている。私たちの先輩は何を見ていたか。戦争とは何なのか。この国から当時の面影が消えていく一方である今こそ、改めて考えてみたい。
第2回では、5月24・25日に慶應三田キャンパスを襲った「山の手空襲」を振り返る。お話を伺ったのは、小泉信三塾長(当時)の娘である小泉妙さんだ。塾長と共に三田の自宅から避難した当時のことを、実に鮮明に覚えていらっしゃった。
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「部屋の明かりが漏れると、中に人がいることがばれてしまうでしょ。だから窓には黒いカーテンをして、電球にも黒い布を覆ったり…」。いつどこに落ちてくるかわからない空襲は、日本国民全員に差し迫った不安材料だったに違いない。
慶應が燃えた日
今からちょうど70年前である1945年5月、慶應の三田キャンパスにも戦火が及んだ。表参道や渋谷など、東京の主要箇所を襲った「山の手大空襲」だ。実はかなり大規模な空襲で、投下された爆弾量は3月10日の「東京大空襲」時の約4倍ともいわれている。
空襲当日、小泉塾長と妙さん、お姉さんは三田の自宅にいた。「夕食も終えて寝ようかという夜の10時頃、サイレンが鳴って窓を見ると芝浦の方に飛行機が爆弾を落としていました。こちらは大丈夫そうだと思っていたところに、突然ガード下にいるようなものすごい音がして。1階におりると、もう庭一面が炎で覆われていました」
妙さん達が自宅の建物から出てから2、30分してやっと2階にいた父が下りてきた。炎をまとった身体に、必死で水をかけた。「私たちは防災頭巾をかぶっていたのですが、父はあれが嫌いでヘルメットだけ身につけていました。だから、顔のあたりはひどい火傷を負ってしまって」
頭上に飛行機が見える度伏せたり止まったりしながら、現在の慶應女子校あたりの防空壕まで避難した。中では随時慶應の校舎の被害状況等の報告がされていた。報告に対して始めは反応していた塾長も次第にその気力すらもなくしていったように見えたという。
全身に火傷を負って
塾長の負傷は、頭から全身に及んでいた。腕は避難する際に階段の手すりを持っていた形のまま固まってしまった。足にもひどい火傷を負い、得意のテニスも出来なくなった。大きな身体は、全体として一回り小さくなった。病室へ見舞いに来た学生の中には、塾長の変貌ぶりに涙を流す者もいた。
包帯まみれの塾長から「痛い」という言葉が出たのは一度だけだったという。看護師に「兵隊さんはもっと痛い中で戦っていたんです」と叱られてからは、弱音は吐かなくなった。5月の下旬は気温も高く、傷が膿む。膿んだ傷にはハエがたかる。手を使えないうちはハエに息を吹きかけたり、ただ眺めたりして静かにやり過ごした。
父 塾長が見た戦争
塾長の戦争に対する意見としては、「戦争になるまでは絶対に反対だったけれど、始まってからは、愛国心を優先して、勝つために戦おうという方針でした」
妙さんご自身は戦争に対してどのように感じていたのかを尋ねると、「絶対嫌に決まっていますよ。当時は食事も貧しかったですから。脱脂大豆が混じった配給米を食べながら、『美味しくない』って、戦争当時も文句を言っていました」
同じ食卓に座る塾長は、そんな妙さんの話も首を縦に振りつつ聞いていたそうだ。塾長として応戦の姿勢を示していた当時も、娘の前では一人の父親だったのだろう。
(上山理紗子)