「とにかく地域の人を助けなければならない」。使命感に突き動かされ、震災発生から3か月間、避難してきた地域住民のサポートに尽力した発電所職員がいる。東北電力女川原子力発電所・地域総合事務所課長の蘇武司さんだ。

東北電力は、地域住民の声を発電所の運営につなげていくことなどを目的に、地域とのコミュニケーション活動全般を統括する地域総合事務所を女川町に構える。そこの職員として勤務する蘇武さんは、その日もいつもと同じように事務所で業務をこなしていた。

眼前に広がる現実味のない現実

14時46分。大きな揺れが東北地方一帯を襲った。津波警報が発令されたが、正直、この時に極端な不安はなかった。地震は大きかったが、津波は高くはないと高をくくっていた。しかし、予想に反し、役場の防災連絡で「大津波」が来るとの情報が入った。ここで初めて「まずい」と思い、高台に一時避難した。「3.11以前にも、岩手・宮城内陸地震などの大地震を度々経験していたので、一種の慣れはあったかもしれない」と当時を振り返る。

避難した高台では想像をはるかに上回る光景を目の当たりにした。「自然の驚異としか言いようがない。今目の前で起きているのに、信じることができなかった」。波が全てを飲み込み、根こそぎ持っていく様子をただただ茫然と眺めていた。ようやく現実だと実感がわいたのは、波が去り、がれき、横転した車が町内に残った状況を見てからだった。その日は家族の安否もわからないまま過ごした。

夜になると女川原子力発電所に避難場所を求めた地域住民がやって来た。「寒い中、ずぶ濡れになっているお年寄りを見離すわけにはいかない」と、当時の所長は受け入れを決めた。後から聞いた話では、振り返ると全ての従業員が受け入れようという目をしており、やるしかない状況だったという。かくして、女川原発の体育館が開放され、約3か月に及ぶ避難所生活が始まった。

ちょうどその初めの頃、避難所に設置されたテレビ越しに福島第一原子力発電所の事故の様子を見ていた。あってはならないことが起きてしまった。こんなことが本当に起きるのかと思った。「あのような事態になることは見抜けなかったのか。なんとかならなかったのか」。連日の報道はにわかに信じがたく、ただ驚くばかりだった。

「自分が落ち込んでいる暇なんてない」

蘇武さんは業務上、地域住民と接する機会が多かったため、避難所での生活の支援にあたった。避難生活が長引いても気持ちが沈むことはなかった。「自分が落ち込んでいる暇なんてなかった」と当時を振り返る。「見知った人が苦労しているのを見て、とにかくサポートしなければと思った。この人たちに何かあってはならない、その一心だった」。

日頃のつながりを活かし、様々な側面から人々の生活を支えた。顔なじみの人と過ごせるようコミュニティごとに体育館を区切り、役場や自衛隊の救護隊と連携して医療面のケアを行った。2、3台の携帯電話を使い、被災者が3分ほどの通話をできるようにした。避難者が心地よく過ごせるよう、できる限りのことをした。

6月に入ると街の状況が良くなった。新たに避難所が設置され、原発内での避難所生活は幕を閉じた。避難所にいた人たちからは多くの感謝が寄せられた。

時間と共に変わりゆく感覚

避難所生活が終わった後、蘇武さんは事務所の再建に没頭していた。震災の写真も動画も初めは見たいと思えなかったと言う。しかし、事務所を再建する中で自らの行動の記録を作ることになり、感覚が変化していった。「自分がしたことを文字に起こしながら振り返り始めたことで、やっと当時の画像なり、映像なりを受け入れられるようになったのかな」。

避難してきた住民の生活を支えた一方、災害を経験した一人の市民でもある蘇武さん。突然襲った悲劇に自身も傷つきながら、地域のために尽力した人がいることを、頭の隅に覚えておきたい。

 

(阿久津花奈)