今回は、言語の意味に関する考察を通し「思考し続ける」という哲学本来の営為を生涯徹底したウィトゲンシュタイン(オーストリア、1889~1951。代表作に『論理哲学論考』、『哲学探究』)と共に、情報・言語・他者と向き合う際の態度について考える。慶應義塾大学文学部哲学専攻の飯田隆教授に話を聞いた。

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―ウィトゲンシュタインが後期の『哲学探究』で用いた「言語ゲーム」という概念について。
 「言語ゲーム」とは、言葉の意味が問題となるとき、その意味を明らかにするためにはそれがどう使われているかをみよというウィトゲンシュタインの考え方から出てきたものです。言葉はどれも何らかの人間的活動と密接な関係をもち、そうした活動はさまざまです。言葉の意味とはこれこれこういったものだと主張することは、不当な抽象や一般論につながります。

―「言語ゲーム」から我々が学び得ることとは。
 彼は言語自体に関心があったというより、言語の使用・思考において陥りがちな誤解に関心があったのです。そうした誤解は典型的には哲学の問題として現れます。彼の考える意味での哲学とは、そうした誤解を正すことによって哲学の問題を消し去るものです。
 彼の死後、その意図とはむしろ正反対の意味で「言語ゲーム」という言葉はしばしば使われてきました。例えば、科学と宗教とは異なる言語ゲームであるとか、異なる言語ゲーム同士ではどちらが正しいかは問題とならず、どちらもそれぞれの意味で正しいのだといった、露骨な相対主義を擁護する仕方で用いられることさえあります。しかし、こうした言い方は抽象論・一般論として、ウィトゲンシュタインが最も嫌ったものでしょう。

―以上を踏まえ、彼が目指したものを更に明確にするならば。
 彼は、それまでの哲学はすべて言語の誤解に基づく誤った営みだと主張しました。また、自身の考えが新たな誤解に導くことに関しても強い警戒心をもっていました。哲学的理論を作ることはすべて哲学的な罪を犯すことだと考えていました。

―一般化・抽象化は哲学に限らず、我々の思考や発話においても常に行われています。
 彼は人々が「哲学」的な、つまり不当に一般化され抽象化されたことを、さも意味あることのように語ることに我慢がならなかったのだと思います。彼のこうした感覚はきわめて重要なものです。

―実社会では、その都度立ち止まり考える余地の無いほど、それ自体は抽象的な言明・テーゼを基に構成された情報が氾濫しています。
 第二次大戦の直前にニュースになったヒトラーの暗殺計画に関して、その背後には英国政府があるという噂が流れ、彼の弟子で友人であったアメリカ人哲学者のマルコムが「イギリス人はその国民性から言ってそんなことをするはずはない」と言ったそうです。これにウィトゲンシュタインは激怒したといいます。「国民性」のような言葉を安易に使うことがどれだけ危険かを自覚するべきであり、それができないのでは、哲学をすることには何の意味も見出せないというわけです。私たちもこの逸話に学ぶべきでしょう。

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 前回から、言語の脆弱性を突くことで広義の情報の不確実性について考えてきた。最終回となる次回、引き続き情報化社会における「実践としての思想」の意義を探る。

(坂本玄樹)