身を寄せ合って越した震災の夜

2011年3月11日。巨大地震で日本が揺れ動く中、部員たちは部室に集まっていた。「何をやるわけでもなく、なんとなく集まっただけ。みんなで固まって夜を越した」。唯一の情報源はラジオ。「仙台空港に津波が押し寄せたなんて言われても…」。流れてくる地震や津波の状況を聞いても、信じることはできなかった。事の重大さに気づき始めたのは、食料を求める人の行列を見た時だった。

震災直後の報道部

大学からは、大学に戻らないようにとの指示が出た。もちろん、新聞を作る活動はできなかった。東北大学学友会報道部の活動が再開したのは5月に入ってからだ。当時記者として活動していた高橋宏明さんは、もちろん被災地へも足を運んだ。「被災者が被災地を取材する感覚だったので、そこまで負い目みたいなものはなかった」と当時の心境を振り返る。取材したのは宮城県亘理町。津波の被害が大きかった沿岸部の地域だ。「すべてが衝撃的だった。写真で見る一部の景色が360度広がっていた。町全体で磯の香りがした」と、五感で感じた震災の傷跡を話してくれた。ただ、報道部として震災を取り上げることは少なかった。学内の情報を報道していくという活動方針にとらわれすぎてしまったせいだ。

震災当日の夜は部室で過ごした

「もっと震災を取り上げるべきだったかもしれない」。そう振り返る高橋さんの学生生活は3月で終わる。学生として震災に向き合うことはできなくなる。しかし、「社会人だからこそできることもある。まだまだこれからだと思っている」と、今までとは違った形で震災と向き合っていく。

変わらない報道部の姿勢

今年で震災から3年になる。仙台で震災を経験した部員が少ない中で、報道部はどのように震災に向き合っていくのか。「震災は重要なトピックであると考えている。仙台で被災した人間が少ないので、客観的な伝え方ができるはず」と話すのは現編集長の岡本佑介さん。しかし、その発言は震災に重点を置いて新聞を作成することを意味しない。「復興とは元の状態に戻ること。普通に戻ること」と口を開いたのは現副編集長の木部翔さん。「普通に戻るということを意識して、我々の新聞も今まで通りのスタンスで報道していきたいという思いもある」と、紙面で復興を目指していく思いも強い。

これからの「復興」

「被害ばかりを取り上げないでほしい」。これはボランティアに積極的に参加してきた記者の立田祥久さんの一言。この言葉は、これからの復興に向けた報道の在り方を考えさせられるものだった。「震災」ではなく「復興」を伝えるという意識が重要なのかもしれない。そして言葉は続いた。「被災地も復興が進んでいて、魅力的な所もたくさんある。そういうところをもっと取り上げてほしい」。東北大学学友会報道部の部員たちは、着実に仙台の地で復興の道を歩んでいる。 (樫村拓真)