毎年春・秋に大観衆をとりこにする早慶戦。その歴史は戦前にまで及び、数々の名勝負が繰り広げられてきた。今回は、早慶戦の始まりから戦争によって中止になるまでの歴史を紹介したい。
今から100年以上前の1903年、創部されたばかりの早稲田野球部が当時屈指の実力を誇っていた慶應野球部に挑戦状を送る。慶應はこの挑戦を受け入れ、記念すべき早慶戦の第1回戦は、同年11月21日、慶應の綱町球場で行われた。
創部3年の早稲田に対し、野球先輩校としてのプライドを持つ慶應の戦いは、二転三転のシーソーゲームとなり、結果は11対9で第1回目の早慶戦は慶應が勝利した。この戦いを機に、両校は、翌年以降春と秋に1試合ずつ行うことを取り決めた。それから早慶戦は、試合毎に名勝負を繰り広げ、次第に国民に定着していく。
だが、3年後に行われた早慶戦で両者1勝1敗にもつれ込んだとき、3回戦目の前日に球場で並ぶ両校の学生達が、今にも乱闘しそうな状況になったことで、当時の塾長らは急遽早慶戦の中止を言い渡した。中止されていた間、早慶両校に、明治・法政・立教・東京大学が加わり、「東京六大学リーグ」が発足した。しかしこのリーグ内でも、未だに早慶両校は戦わなかった。未来永劫早稲田とは戦わないと決議した慶應を、多くの人の努力で復活に同意させた頃には、すでに早慶戦中止から19年も経っていた。復活した日、待ちわびていた人達が、アリの入る隙間もないほどに球場へおしよせ、早慶戦は再び活気を取り戻した。
しかし、この間に時代は戦争に突入し、軍部と文部省が敵国アメリカ生まれの野球を厳しく規制。1943年に六大学リーグは解散に追いやられた。なんとかして早慶戦をやりたい両校は「戦地へ駆り出される学生へのはなむけに」と、数々の軍部の嫌がらせをはねのけ、なんとか実現にこじつけた。両校の戦いは早稲田が10対1と快勝。しかし、この試合に勝敗などない。両校の学生はお互い戦争に赴く仲間にスタンドからエールを送りあった。そして、いつしか球場の人々は「海ゆかば」を大斉唱し、涙を流しながらもぬぐうことはせず、両校心を一つにして歌い続けた。その後、野球や青春への別れを惜しみながら、光も望みもない戦争へと駆り出されていったという。
そんな時代も今は昔。今は自由に野球をする喜びがある。今後の早慶戦も、昔のような大観衆を熱狂させる戦いになることを、誰もが望んでいる。
(香取了)