「民主主義とは革命である——それは命がけで勝ち取り、命がけで守り抜くものである」というのが、日本など一部の国々をのぞく世界の常識である。アメリカの独立革命(1775—83)においても、フランス革命(1789—99)においても、人々は命がけで独裁者による支配をしりぞけ、自由と自治の権利を手にした。自らの幸福のために、そして何よりも愛する人々のために、命を賭して戦うということは、かつて人類救済のために、我が身を捨てたキリストの行為に似て、尊く崇高な行為であった。
民主政体が確立したのちも、それを壊そうとする試みには、人々は断固として戦った。第一次世界大戦も、第二次世界大戦も、少なくともアメリカの人々にとっては、独裁者・独裁国家の野望をくじき、民主主義を守るための戦いであった。
1989年、冷戦の終結に時を合わせ、ベルリンの壁が崩壊、ポーランド、ハンガリー、チェコスロバキア、ブルガリア、ルーマニアでも相次いで人々の怒りが爆発、なだれを打って独裁政権は崩壊した(同じ年、中国の天安門事件は武力で鎮圧された)。
世界の多くの地域に民主主義が行きわたり、市民的自由への脅威が取り除かれると同時に、自由主義経済(市場経済)に基づく共存共栄の道が開かれたという意味で、フランシス・フクヤマはこれを「歴史のおわり」(原題は『歴史のおわりと最後の人間』1992年初版、2005年改定版)と呼んでいる。独裁的な支配者(封建領主)を倒し、民衆(平民)が権力を掌握した瞬間に、貴族(エリート層)による輝かしい歴史が終わり、何のとりえもない平凡な「最後の人間」が出現するというのが、ドイツの哲学者ヘーゲル(1770—1831)やニーチェ(1844—1900)の考え方であるが、フクヤマはもちろんそうした人間を見下しているわけでも、それに絶望しているわけでもない。もしかりに、人々が現状に甘んじ、安易な生活をつづけるようなら、文字通り「歴史のおわり」を迎えることになろうが、逆に人々が先人たちの勇気、気概、競争心などを忘れずに、努力を怠らなければ、歴史はおわらない、民主政体はさらに強化されるというのフクヤマのメッセージである。
フクヤマは日系三世。現在、保守系のシンク・タンク、ジョンズ・ホプキンズ大学の高等研究所(ポール・H・二ッツェ・スクール)で国際政治経済学を専攻。「脱歴史社会」(=先進国)対「歴史社会」(=途上国)という枠組みで議論をしているために、ハンティントン(『文明の衝突』)などと同様、ネオコンの一人と見なされることもあるが、「先制攻撃」などの過激な議論はしていない。(http: //www.geocities.jp/proteus11jp)