『メディア論』(マーシャル・マクルーハン著、栗原裕・河本仲聖訳、みすず書房)は今や古典的な名著といえます。私は、いつも『聖書』のように、肌身離さず携帯していた本書を、メディアセンターのリザーブブックにしてもらい、「自由研究セミナー」の教科書として、毎年春学期に7、8名の学生たちと輪読していました。
1964年の出版ですから、日進月歩進展するメディアを考察する書としてはもう古いのではないか、という囁きが聞こえてきます。にもかかわらず、私は本書を学生諸君に薦めます。第一部は理論的な総論で、第二部が「話し言葉」「書き言葉」「ラジオ」「テレビ」など様々なメディアを扱った各論になっています。確かに、インターネットや携帯電話の項目はありません。
しかし、私が好きなところは、第一部で、①メディアはメッセージである、②熱いメディアと冷たいメディア、③加熱されたメディアの逆転、④メカ好き—感覚麻痺を起こしたナルキッソス、⑤雑種のエネルギー 危険な関係、⑥転換子としてのメディア、⑦挑戦と崩壊—創造性の報復という7章にわたる 70ページで、繰り返し熟読玩味していただきたい。
「メディアはメッセージである」とは、どういうことなのか?メディアの内容ではなく、メディアそのものが問題なのです。恋する相手に自分の感情を伝えるとき、皆さんはどんなメディアを使いますか? 手紙を書く、電話をする、インターネットでメールをする、携帯電話で写メールするなど等、いろいろありますが、受け取った相手の心に訴えるメディアはなんでしょうか?
そこから、第二章の「熱いメディアと冷たいメディア」という命題が生まれます。熱いメディアは、カラーテレビのように情報量が多いものですが、冷たいメディアは、ラジオや白黒テレビのように情報量少ないものです。実は、冷たいメディアの方が、情報は少ないけれど、受け手がいろいろと想像できたり参入できる度合いが大きいのです。大学の講義は熱いメディアですが、演習やセミナーは冷たいメディアです。講義ではノートをとるだけで精一杯ですが、セミナーでは皆さんが主役で、発表したり、議論を戦わせたりすることができます。
第五章で、「メディアの雑種化あるいは異種交配は、さながら核分裂あるいは核融合のように、大きな新しい力とエネルギーを放出する」と、マクルーハンは言っています。メディアの異種配合という考え方は、現代アートの方向性を予言していました。〈音楽と絵画の融合〉というアートは、まさにマクルーハンのメディア論が理論的な根拠を持っています。映画も、様々なメディアの複合的なアートであると考えられます。
『メディア論』こそ、情報化社会という現在の状況に活路を拓く刺激的な書物であるといえるでしょう。