慶大日吉キャンパス一帯の地下には旧帝国海軍の地下壕が広がっている。2008年9月末、創立150年事業の一環として計画された、蝮谷体育館の建設予定地内にて発見。アジア太平洋戦争時の地下壕の出入口だが、慶應義塾はこの学術的価値を重視し、当初の体育館の建設計画を変更して出入口の保存に努めた。また地下壕の実態を明らかにするための発掘調査も行われた。
実際に地下壕が使用されたのは1944年10月頃からで、神風特別攻撃隊や戦艦大和の特攻の出撃命令もここから出された。当時の文書は殆ど残っていないので、地下壕の調査や現場の労働者の証言が研究に重要となる。証言者の高齢化が進む中、後世に戦争を伝える手段としてこの地下壕がますます重要な価値をもつことになる。
また発掘調査で明らかになったのは、地下壕には当時では最高水準の技法が用いられたことも判明した。トンネルは爆風に弱いことから出入口をY字またはT字型にして、爆撃に備える形になっている。この構造は日本で初めて導入された。さらにZ8工法という、当時まだ珍しかった工法により、工期を大幅に短縮していたことも分かった。戦争末期の物資が困窮していた中で、海軍はこの地下壕を非常に重要視していたとみられる。
しかし、日吉台地下壕は文化庁が進めている「近代遺跡の調査」において、詳細調査対象50遺跡の一つとして選定されたにもかかわらず、横浜市教育委員会がアジア太平洋戦争期の戦争遺跡を文化財として扱っていないため、文化財保護法の規制を敷くことができない。そのため今年4月には建設業者により出入口部分が破壊される事態を招いた。壊された内の一つは完全にコンクリートで埋められ、復旧ができないという。地下壕の近くに住み、地下壕保存の会にも所属している長谷川崇さんは「事前の連絡もなく突然工事が始まっていた」として国や横浜市に抗議したが、回答は思わしくなく、工事は依然として続いている。
発掘調査を先導して行った、慶大文学部教授の安藤広道氏は地下壕について「資料を読むだけでは分からない当時の雰囲気を実感できる良い遺跡である」と語り、「自分たちの通うキャンパスにこういった遺跡があることをもっと知って欲しい」と塾生が地下壕に関心をもつことを期待した。