2008年1月12日。冷たい雨が降りしきる、東京・国立競技場。
大学選手権決勝。この寒空の下、黒黄(こっこう)のユニフォームを身に纏った選手たちが、臙脂(えんじ)の大男たちに果敢に立ち向かう姿があった――。
起伏の激しかった対抗戦。初戦での不覚。徐々に復調の気配を見せるも、最後の試合での完敗。
一転、試合を重ねるごとに急激な成長を遂げた大学選手権。早稲田大学との決勝戦での39年振りの邂逅(かいこう)。春のシーズンインから、翌年の大学選手権決勝の舞台に至るまでのプロセス。困難を極めたのは、想像に難くない。
今回われわれは、林雅人・慶應義塾大学蹴球部監督(以下林)にお話を伺った。このインタビューを通じて、監督就任1年目にしてチームを大学選手権決勝の舞台に引き上げた彼の手腕、そして彼の「人となり」をそれとなく感じていただければ幸いである(インタビューは、2008年7月25日に行われた)。
――時計の針を約半年前、2008年1月12日に戻してみようと思います。極寒の国立競技場、実に39年振りとなる早・慶による大学選手権決勝(●6- 26)が行われました。対抗戦での不調が嘘のように、大学選手権で慶應蹴球部は見事な勝利を積み重ねていき、迎えた早稲田との頂上決戦でした。
林 大学選手権に入ってからはチームもすこぶる調子が良かったんですよ。駆け上がった、っていうんですかね。自力で階段を一段ずつしっかり上ったというよりは、「時の運を得た」という感覚が当時は強かったですね。強力なFW(フォワード)を擁する、東海・明治を超えてのあの決勝の舞台。どうやって学生王者・早稲田の力を抑え込むか、どうやって慶應の力を最大限引き出すか、熟慮して試合に臨んだことを覚えています。早稲田のFWの圧力に耐えて、どれだけBK(バックス)で勝負できるかな、と。(BKを生かすという)チームのプレースタイルから言ったら、天候は晴れの方が嬉しかったですけど、こればっかりはね。実際、雨の影響もあってか、キーマンの山田章仁(当時4年、現ホンダヒート所属)もいい場面でボールを受けて、というのがほとんどなかったですから。ただ1985年には選手として、1999年にはヘッドコーチとして、いずれも決勝の国立の舞台には立ちましたけども、今回は「監督」という立場で、また違った感慨を抱きましたね。
――では、話をもう少し前に。秋季の対抗戦初戦、筑波大学戦(●5-32)を見た限りでは、慶應が大学選手権の決勝まで勝ち上がってくることは想像できませんでした・・・。
林 僕も筑波に負けたときは、正直驚きました。勿論、すべては監督である自分の責任なのですが。夏合宿の疲れやチーム戦術の軸となるSO (スタンドオフ)の故障等々ありましたけど、何よりもまずは選手たちにメンタル面での強さを身に付けさせることが急務であると改めて感じた試合でしたね。
――監督の考える、対抗戦での「ターニングポイント」となった試合は、どの試合でしょうか?
林 宮城・仙台で行なわれた帝京戦(○26-10)でしょうね。筑波戦であんな酷い負け方をした。次の青山学院大戦(○86-0)には快勝したけれど、その次の日本体育大学戦(○22-19)は最後のワンプレー、ギリギリのところでの勝利に終わった。結果、取り戻せるはずの自信が、日本体育大学戦でも取り戻せなかったわけです。この流れの中で、これから始まる帝京・明治・早稲田の3連戦、本当に大丈夫かという気持ちで一杯でした。帝京との試合に臨むにあたって、実は仙台に3泊したんですよ。異例ですけど、あの試合で負けたら、それこそもう「終わり」でしたから。早めに仙台に入って、相応の準備とコンディション調整をしました。
――まさに「背水の陣」。帝京攻略の為に練った戦略とは?
林 まず「エリアで負けない」こと。帝京は良質なFWが揃ったチームですので、とにかくノータッチキックを蹴って、ラインアウトからモールという場面を極力回避するよう徹底させました。ディフェンス面での低く鋭いタックルは当然のこととして、最終的にはフィットネスの部分で勝負しよう、と。ちなみにあの試合、前半最初の20分の入りは完璧でしたね。準備した通りの出来。加えて、SO濱本勇士(当時4年)のエリアコントロールが秀逸でした。あそこで帝京にきちっと勝てたというのは、非常に大きかった。選手たちも、相当な自信になったと思います。
――対抗戦の「ターニングポイント」となった帝京戦。直後の明治との試合(△29-29)、あの息飲むような一進一退の攻防を繰り広げた一戦を振り返っていかがですか?
林 まず、日程面で困難な状況にありました。帝京戦を仙台でやって、中5日で東京・秩父宮ラグビー場での明治戦を迎える、というものだったんですよ。ただ、すべての物事にプラスとマイナスの側面があるように、中5日で逆に良い事もある、という発想に切り替えました。「帝京に勝った勢いで明治との試合にも入っていけるぞ!」という風にね。チームとして、この困難な状況をどうプラスに転換するかが求められたわけです。その上で、仙台から帰って即点滴を打つなど、体力面でもしっかりと回復を図りました。明治戦に関して言えば、試合前の準備の面でかなり大変な思いをしましたね。
――「FWの明治」vs.「BKの慶應」。個人的には、非常に興味深い戦いでした。
林 明治はチーム戦略が非常に明確ですから。勝ち負け抜きに考えれば、ある意味応対しやすいとも言えます。帝京戦同様、タッチキックを極力蹴らない。スクラムと、ラインアウトからモールの流れだけは絶対に避けようという共通認識の下で、この試合に臨みました。拮抗した試合展開の中で、「BKを生かす」という自分たちの強みを再確認できましたね。しかしながら、試合の入り方は去年の中では最低でした。前節の帝京戦が最高なら、明治戦は最低。ただ、試合への入りの悪さは、選手だけのせいではなく、監督である私のリードミスの部分も否めないと思います。
――と、言いますと?
林 試合直前のウォーミングアップで、明治の選手を慶應の選手が見ていたでしょう。「あぁ、でかい」と。不思議なことに、負けるチームっていうのは試合前に相手のことが気になるものなんですよ。逆に勝つチームっていうのは、相手関係なく、自分たちのことだけに集中している。相手が視界に入らないよう工夫するといったような、慶應の選手の集中を高める策を講じることができなかったのは私のミスです。
――明治と一戦交えて、自分たちの「ストロングポイント」を再確認した上での早稲田戦(●0-40)でしたが・・・。
林 はっきり言って、完敗過ぎました。早稲田は、例えば帝京や明治といった、所謂FW主体のチームと違って、FW・BK共に全く隙のないチームですからね。自分たちの武器がBKというだけでは斬りつけられない訳ですよ。「自分たちの武器はこれ(BK)だ!」ということでバサッと斬ろうと思ったら、全然斬れない(苦笑)。持っている武器自体がまだまだ弱いんだな、という認識に立ち返りました。ただ、僕がより問題だと感じたのは、慶應ラグビーの根幹を成すタックルの部分だったんですよ。あの試合のビデオを見てみると、トライされたシーンで悉(ことごと)くタックルが高かった。「ひたむきに低くタックルに行く」。慶應が早稲田に勝つためには、それしか方法論はなかったはずなのに・・・。正直、負け方が良くなかったですよね。自分たちの持っている力のすべてを出し切れていなかった。万策尽きた、というわけでもない。うわべだけでラグビーをやっている、そんな感じでした。
――しかし、勝負事においては「負け」が、その後の飛躍のキッカケになることもあります。
林 当然、早稲田戦の完敗がその後のモチベーションになりましたよ。人間、経験からしか学べませんし、敗戦から学ぶことの方が多いわけですから。あの敗戦を「良かった」と言えるような未来を得るためにはどうすればよいか。個人的には、あの敗戦を通じて選手たちの間に芽生えた「とにかくディフェンスをしっかりしなければ勝てないんだ」という強い気持ちが、大学選手権での好成績に繋がったのではないか、と考えています。
――春季から対抗戦にかけての不調から一転、大学選手権に入っての躍進。例えば、CTB(センター)増田慶介の新人とは思えない、溌剌としたプレー。昨年は特に終盤にかけて、チームそして選手個人も加速的に成長を遂げたように感じるのですが。
林 確かに。ただ、主にフィットネスの部分で、春の「不充実」が最後まで尾を引いたな、とは思いますね。僕は自らをラグビー界の(イビチャ・)オシムだと思っていて(笑)。ラグビーの基本は「走る」ことだ、と。走らないことにはラグビーは出来ないという信念を持っているんですね。そんな僕が監督に就任する前、トレーナー(当時)の誤った指導で選手たちが意識的に体重を増やしていたんです。監督就任後、 3000m走のタイムを計ったら、これがとてつもなく遅い。彼らの体重のことを考慮して、昨年の春は例年の3割近く総走行距離を減らしたんですが・・・。それでも、自分の体重を支えられなくて、足を怪我したりするわけですよ。例えば、自慢のBK(山田・中濱・小田)が、春のシーズン揃って試合に出たのはたったの2試合ですからね。昨年、慶應の「武器」だと言われていたBK陣も、春のうちはトレーニングすらまともにできなかった。夏合宿もフィットネストレーニングに余計な時間を費やしてしまった。そうやって夏合宿で春の遅れを挽回しようと躍起になった結果、選手たちにも疲労が一層蓄積された。その悪い流れを断ち切れぬまま、対抗戦初戦の筑波戦を迎えてしまった。僕自身、監督就任1年目ということもあって、結果を出すことに拘っていた面もあったのかもしれないですね。
(白熱のインタビューは、後編に続く・・・)
(2008年8月2日更新)
写真 安藤 貴文